ウェブ1丁目図書館

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薩長同盟は軍事同盟ではない

慶応2年(1866年)1月は、日本が明治維新へ進む重大な出来事があった月です。

その重大な出来事とは、薩長同盟が成立したことです。

元治元年(1864年)の禁門の変以後、薩摩藩長州藩犬猿の仲となり、特に長州藩薩摩藩をひどく憎んでいました。当時、薩摩藩長州藩も大きな力を持つ藩でした。坂本龍馬中岡慎太郎は両藩が手を結べば倒幕が可能となると考え、苦心の末、薩長同盟の締結を成功させました。

忘れられた月形洗蔵

薩長同盟という歴史的な提携関係は、坂本龍馬中岡慎太郎の両者が考え、その実現のために行動したとされています。犬猿の仲の薩長を結びつける奇想天外な行動は、坂本龍馬中岡慎太郎の柔軟な発想がなければ不可能だっただろうと多くの人が述べています。

しかし、薩長同盟の提唱者は、坂本龍馬中岡慎太郎だけではありませんでした。むしろ、最初に両藩を結びつけることを考えたのは、坂本と中岡ではなく、彼らは先に提唱されていた薩長同盟なる案を実行に移したと言った方が正しいでしょう。

では、坂本や中岡よりも先に薩長同盟を提唱したのは誰だったのでしょうか。

その人物は、福岡藩の月形洗蔵です。

作家の井沢元彦さんの著書「逆説の日本史 21巻 幕末年代史編Ⅳ」では、忘れられた月形洗蔵の功績について述べられています。

福岡藩の当時の藩主は黒田長溥でした。福岡藩は徹底した佐幕派だったのですが、黒田長溥は月形洗蔵ら勤皇派にも寛容な態度を示していました。

福岡藩は、黒田長溥が薩摩の島津家から養子に入ったこともあり、以前から薩摩藩との縁が深く、また、月形洗蔵も薩摩藩士や長州藩士と親交がありました。このように薩摩藩長州藩の両方とのつながりが深い藩は、当時、福岡藩だけと言っても良い状況です。そして、両藩を結び付けられる人材は、月形洗蔵以外にはいない状況でもありました。

しかし、月形洗蔵は、薩長同盟を成立させることなくこの世を去ります。福岡藩内では、文久3年(1863年)の八月十八日の政変で、京都を追われた7人の公卿のうち5人の身柄を預かっていました。五卿は倒幕を狙う大罪人です。その五卿を厚遇し、親密にしている月形ら勤皇派が良からぬことを企んでいるとの嘘を佐幕派黒田長溥に密告しました。

これを信じた黒田長溥は、勤皇派を捕え投獄します。この事件を乙丑の獄といい、福岡藩はこの時に明治維新に乗り遅れることになります。

薩長同盟の締結を遅らせた大久保利通の手紙

月形洗蔵は、慶応元年5月に投獄され、10月に処刑されました。薩長同盟の締結まで3ヶ月という時期です。

彼の薩長同盟という案は、生前に親交のあった中岡慎太郎に語っていたでしょう。そして、中岡慎太郎薩摩藩士とも親交があり、坂本龍馬もその頃薩摩にいたので、2人は月形洗蔵の案を共有していた可能性があります。また、坂本龍馬は、長州の桂小五郎とも旧知の間柄だったので、薩長両藩を結び付けられる立場にあったと言えます。

そこで、坂本と中岡は、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎にアポを取り、下関で両者が会談する段取りを組みます。

ところが、西郷隆盛は下関に到着する直前になって、軍艦で京へ向かってしまいます。つまり、桂小五郎との会談をすっぽかしたのです。その理由は、京で急変が起こったとの手紙が大久保利通から来たというものでした。長州藩は、その頃、幕府の征伐を受けて崩壊するかもしれないという危うい立場にありました。大久保利通は、京で今にも幕府が長州征伐を決定するかもしれないと西郷隆盛に手紙で報せたのです。

薩長同盟も大事だが、それ以前に長州征伐を止めさせることの方が重要だと西郷は考え、桂との会談をドタキャンしたというのが歴史の通説になっています。

しかし、井沢さんは、そうではないと指摘します。

その理由として、まず当時の通信手段の遅さを挙げています。現代のように電話があれば、すぐに京での急変を報告できますが、当時の日本にそのような便利な道具はありません。京から下関に手紙を送るには、それなりの時間がかかりますから、西郷が下関で京の急変を知ることは不可能です。しかも、その時の大久保利通の手紙は残っていないことから、最初からそんな手紙はなかったのではないかとも指摘しています。

さらに井沢さんは、当時、薩摩藩の実権を握っていた島津久光薩長同盟の締結を遅らせたのではないかとも述べています。島津久光は、崩壊寸前の長州藩にこちらから手を差し伸べるのではなく、長州藩から薩摩藩に懇願する形で薩長同盟を締結した方が、有利な条件を提示できると考えていたのではないかと。

もともと島津久光は、朝廷と幕府が協力する公武合体を提唱していましたから、朝廷と幕府の両方の敵である長州藩と手を組む理由がないでしょう。もしも、長州藩と手を組むなら、自分にそれなりのメリットがなければならないと考えるのは当然と言えます。

薩長同盟の内容

そんなこんなと、いろいろなことがあったものの、慶応2年1月に薩長同盟は成立します。

ここから両藩は、武力討幕の実現に進んでいったと一般的には思われていますが、薩長同盟の内容は、そのようなものではありませんでした。

慶応2年1月の時点では、薩長同盟の内容は、長州藩が朝敵の汚名を返上するために薩摩藩も協力するといった内容でしかありません。慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで両藩は力を合わせ旧幕府軍と戦ったので、慶応2年の段階で薩長軍事同盟が締結されたと考えられるようになったのでしょう。


それにしても、坂本龍馬の実行力はすばらしいですね。

薩長同盟船中八策大政奉還

どれも、坂本龍馬が成し遂げたものです。しかし、これらは、坂本龍馬が考えたものではありません。薩長同盟は月形洗蔵が考えたものですし、大政奉還幕臣大久保一翁が考えたものです。

自分で考えたことを自分で実行する人はいます。

自分が考えたことを他人に任せる人もいます。会社の社長が部下に仕事を任せるような場合ですね。

でも、坂本龍馬のように他人の智恵を実行に移す人は少ないのではないでしょうか。そもそも他人の言うことに耳を傾ける人が多くないですよね。