織田信長の最期の地は京都の本能寺でした。家臣の明智光秀の謀反により、天下一統の目前でこの世を去りました。
明智光秀が信長に背いた理由は謎のまま。様々な説がありますが、確証が得られていません。
謎と言えば、信長が本能寺で討たれたことも不可解です。信長は京都に滞在するときは本能寺に宿泊していたのですが、現在の信長に対する評価から考えると、彼が本能寺に宿泊した理由がわからないのです。
信長は宗教弾圧者だったのか?
織田信長は、戦国大名との戦いだけでなく、多くの宗教勢力とも戦いました。本願寺の一向一揆との戦い、比叡山の焼き討ちなどで、たくさんの仏教徒を殺害しています。中には、無抵抗な婦人や子供も含まれていたのですから、信長の宗教弾圧は徹底して行われたというのが通説になっています。
しかし、信長は本当に宗教弾圧者だったのでしょうか?
作家の井沢元彦さんは、著書の「逆説の日本史10巻」で、織田信長は宗教を弾圧していないと述べています。信長が様々な宗教勢力と戦い、多くの信徒を殺害していることは史料から明らかなので、そのようなことはないと思うでしょう。でも、同書を読むと信長は宗教弾圧者ではなかったかもしれないと再考させられます。
そもそも、信長を宗教弾圧者とする考え方は、現代の日本の仏教を前提にしているからです。現代の我が国のお坊さんは、暴力的な方法で揉め事を解決しようとはしません。また、個人の考え方には様々あることも認めているように感じます。簡単に言うと、現代のお坊さんは優しいのです。
ところが、戦国時代のお坊さんの中には、非常に暴力的な人もいました。そのようなお坊さんが揉め事を解決する手段として使っていたのは武力です。また、宗教を利用して民衆を騙しているお坊さんもいました。
1536年に起こった天文法華の乱では、叡山の僧兵が法華宗(日蓮宗)に攻撃をかけ、京都は応仁の乱以上の被害を受けたとされています。叡山の僧兵が暴力的なのだと思う人もいるでしょうが、法華宗も1532年に本願寺を攻撃し、本願寺を京都から大坂に追い出していますから、叡山の僧兵だけが暴力的だったのではありません。
詐欺師を処罰した信長
織田信長が宗教を弾圧し始めたのは、父の病気が僧侶の祈祷によって治らなかった時からだとされています。僧侶は祈祷で病気は治ると保証したのに父は回復せず亡くなりました。そこで、信長は僧侶に罰を与え、何人かは殺されてしまいました。
井沢さんは、信長はいきなり僧侶に罰を与えることはしていないと述べています。信長は、どんなことでも実際にやらせてみて、それで結果が出なかった時に罰を与えているのです。
つまり信長の視点で見れば、それは宗教弾圧ではなくて、「詐欺師を処罰した」ということなのである。
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他にも、信長は奇跡を起こせると言う無辺という修行者に実際に奇跡を起こすように命じましたが、無辺が奇跡を起こせなかったため罰を与えています。
本願寺との11年に及ぶ戦争も比叡山の焼き討ちも、根本的な部分は上記と同じで、できもしないことをできると言って民衆を騙している者たちを処罰していただけと言えます。宗教を利用して人々を騙している者たちを信長は許さなかったのです。
宗教組織は戦争をする
現代日本では、宗教は穏やかなものだと多くの人が思っています。しかし、この考え方は世界的に見て少数派ではないでしょうか。歴史的にも珍しいことです。世界中で起こっているテロ事件には、何らかの形で宗教が絡んでいます。また、世界史を見ても、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの宗教が大規模な戦争に関わっています。
日本史も例外ではなく、戦国時代以前は、仏教の各宗派が戦争に関わっています。一向一揆は浄土真宗の信徒たちですし、叡山の僧兵は平安時代から武力をもって政治に介入しています。
安土宗論は八百長ではない
歴史的に見て、宗教組織は戦争に関わってきましたが、争いの原因を作っているのは、多くの場合、原理主義者と呼ばれる人々です。
織田信長は、この原理主義者、もっと言えば宗教の守備範囲外のことにまで口を出してくる狂信者の振る舞いに罰を与えたのです。罰を与えると言っても、信長は、まず相手の言い分を聞き検証しました。その上で、相手の言ってること、例えば祈祷で病気が治ることが立証されなかった時に罰を与えたのです。要は、宗教の名を借りて民衆を騙してきた者たちを処罰していただけなのです。
安土宗論も同様です。
安土宗論は、簡単に言うと、浄土宗と法華宗のディベート(討論)です。このディベートで、法華宗は浄土宗に敗れ、書面に法華宗が負けたと書かされ、さらに莫大な罰金も支払わされました。
ところが、その後、安土宗論は、織田信長が法華宗を弾圧するために仕組んだ八百長だと言われるようになります。その理由には、審判役の僧の耳が遠く議論の内容がわからなかったのに浄土宗の勝ちとしたこと、浄土宗側が「方座第四の妙」という意味不明の言葉を発し法華宗側に反論できないようにしたことが挙げられています。
とにかくどのような展開になっても、浄土宗側が有利になった時点で浄土宗の勝ちを宣して、法華宗を弾圧する意図が信長にあったのだと言われています。
しかし、織田信長は、どの宗派に対しても禁教令を発したことは一度もありません。11年もの間、本願寺と戦争しても浄土真宗を禁じることはありませんでしたし、法華宗論の後も法華宗を禁じることはありませんでした。
つまり、信長は、宗教弾圧をしていないのです。それどころか、信長が宗教を利用して民衆を騙す者たちを処罰したからこそ、現代日本の宗教は穏やかなのです。
日本の宗教は、明らかに信長以前と以後で変わりました。現代の穏やかな宗教を前提とすれば、信長は宗教弾圧者となるでしょう。でも、現代の穏やかな宗教の基本を作ったのは信長なのです。もしも、戦国時代に織田信長が登場しなければ、現代日本も、他の考え方を許さない原理主義者によるテロが各地で起こっていたかもしれません。
さて、冒頭で信長が本能寺で討たれたことが謎だと述べました。本能寺は法華宗の寺院です。信長が法華宗を弾圧する意図があったのなら、禁教令を出し、法華宗の寺院を破壊したはずです。それなのに信長は、京都に滞在するときは、死の直前まで本能寺に宿泊していたのです。
信長に法華宗を弾圧する意図があったのなら本能寺には宿泊してないでしょう。また、法華宗にしても、弾圧される前に本能寺に宿泊している信長を暗殺しているはずです。
本能寺の変は、織田信長が宗教弾圧者でないことを証明した事件と言えるでしょう。
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