民主主義国家は、国民全員が平等な国家です。
でも、民主主義の誕生は、おもしろいことに国民よりも上位の絶対的な存在を認めたことに始まります。その絶対的な存在は、一神教の神です。
神の下では、誰もが平等と考えたことが民主主義の出発点であり、神の存在が絶対であればあるほど、1人の人間に大きな権力が集中しなくなったのです。キリスト教国がいち早く民主化したのは、この絶対的な神の下では、みな平等と考えられるようになったからです。
そして、日本が民主化できたのも、天皇という絶対的な存在を認めたからでした。
2つの憲法案
大日本帝国憲法が公布されたのは、明治22年(1889年)2月11日でした。
この帝国憲法では、天皇を絶対的な存在としています。一神教の国では神が絶対的な存在でしたが、日本で天皇が絶対的な存在であることは、江戸時代に尊皇思想があったことから当時の人にとっては当たり前でした。日本が民主主義国家となることができたのは、天皇を絶対とする尊皇思想が多くの国民に浸透していたからなのです。
作家の井沢元彦さんの著書『逆説の日本史 24巻 明治躍進編』では、大日本帝国憲法の制定の過程が詳しく解説されています。
帝国憲法の制定にあたって、大隈重信や福澤諭吉はイギリス流の民権拡張路線を主張しました。帝国憲法の制定は、このイギリス流でほぼ決まりだろうと思われましたが、岩倉具視と伊藤博文がプロシア流の王権拡張路線を主張したことで、2つの憲法案が対立することになります。
イギリス流が圧倒的に有利な中で、プロシア流が主張された背後には、井上毅の存在がありました。憲法に疎い岩倉は、井上がすすめるプロシア流に乗っかり、最終的に帝国憲法はプロシア流となったのです。
イギリス流は、国家の大事は、国王ではなく議会で決めるというものなので、現代の視点で見れば、こちらが民主的です。しかし、岩倉や伊藤は、天皇絶対の尊皇思想が根本にあるので、イギリス流を認めることはできません。イギリス流を認めない岩倉や伊藤では、日本が民主主義国家になるのは難しいように思えますが、現実には、岩倉らのプロシア流が勝利し、日本は民主主義国家になることができました。
明治十四年の政変
しかし、憲法案は、イギリス流を主張する大隈重信が優位な立場にあったので、岩倉派が逆転するのは難しい状況でした。
岩倉派が勝利する要因となったのは、北海道開拓使官有物払い下げ事件でした。この事件は、後に内閣総理大臣となる薩摩出身の黒田清隆が、同じ薩摩出身の五代友厚に官有の施設を不当に払い下げしようとした事件です。
この不正を追及したのは大隈重信でした。不正を許さない大隈の態度は当たり前のことなのですが、岩倉や伊藤は、大隈が事件を政治問題化し政権を牛耳ろうとしていると主張しました。これにより、大隈は参議を罷免され、帝国憲法も、プロシア流が採用されることになったのです。
この事件を明治十四年の政変といいます。
教育勅語で女子でも教育を受けられるようになる
今では悪いもののように言われることが多い教育勅語ですが、これも、日本が民主主義国家になるために重要な働きをしました。
教育勅語は、明治天皇が国民に教育を受けることを奨励したものです。教育勅語が、日本を軍国主義に走らせたとの批判が強く、その功績はあまり知られていません。
江戸時代まで、日本は封建社会で、それを維持するために朱子学が教えられていました。朱子学は、主君に逆らわないことや男尊女卑を当たり前とする教えです。自分たちが一番で外国人が劣ると考えるのも朱子学の影響です。幕末に尊王攘夷運動が盛んになったのも、朱子学の影響です。
朱子学は、要するに差別的な思想です。その差別的な思想から、江戸時代には女子が教育を受ける必要はないと考えられていました。
ところが、教育勅語は、国民に教育を受けることを奨励したので、男子だけでなく女子も教育を受ける機会が与えられたのです。ここで、大きな力となったのは、プロシア流の帝国憲法でしょう。天皇を絶対とする一君万民性の下では、国民はみな平等です。親が「女子教育は不要だ」と言って娘の教育の機会を奪おうとしても、天皇陛下が教育を受けることを奨励しているので、親の主張は認められません。
現代の視点で教育勅語を見るとおかしな点はあるでしょうが、朱子学の考え方が当たり前だった時代では、教育勅語は国民に平等に教育を受ける機会を与えることになったのですが、革新的だったと言えます。
大日本帝国憲法の制定の過程を知ると、民主主義は、段階的に発展していくものだとわかります。
江戸時代には、身分が士農工商に分かれ、武士階級でも殿様や家臣に分かれていました。身分が多段階に定められていた社会から、天皇が絶対で、それ以外はみな同じとする一君万民制は、日本が民主主義国家になるために必要な過程だったのです。
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