14世紀に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が政治の中心となりました。これを建武の新政といいますが、うまくいかずにすぐに崩壊し南北朝時代に突入します。
同じ時代に2人の天皇が皇位につく異常な時代は、足利義満が将軍になるまで続きました。
後醍醐天皇が吉野に開いた朝廷が南朝、足利尊氏が擁立した光明天皇側が北朝で、最終的に両統が合一した後は北朝系が即位し続けています。しかし、明治天皇は南朝が正統だとおっしゃっていますから、現代では南朝を正統としています。
北朝系の天皇が南朝を正統と認める不思議
先ほども述べましたが、南北朝の騒乱が終結した後の天皇は、北朝系から出ています。もちろん、明治天皇も北朝系です。それなのに明治天皇は北朝ではなく南朝を正統だとおっしゃっているのですから不思議です。
明治天皇が南朝を正統としたことについては、いろいろな噂があります。実は、明治天皇は替え玉で祖先は南朝系だったから、南朝を正統としたということを聞いたことがある方もいらっしゃると思います。他にも、尊王攘夷運動が盛んだった幕末に南朝に仕えた楠木正成を忠臣として仰いでいた志士がたくさんいたから、その影響で南朝を正統としたのではないかと考える方もいらっしゃるでしょう。
しかし、作家の井沢元彦さんは、「逆説の日本史7 中世王権編」で、これらとは違う独自の見解を述べています。井沢さんは、明治天皇が南朝を正統とした理由を怨霊信仰だと考えています。
日本は古来から怨霊信仰が盛んだったというのが、井沢さんの日本史全体の捉え方です。そして、明治天皇が南朝を正統としたのも、怨霊信仰が根底にあるからだと。
乱世を描いているのになぜ「太平記」なのか?
太平は平和の意味ですから、太平記は平和な時代を描いた物語となりそうです。しかし、その内容は題名とは異なり、半世紀にわたる戦乱を描いたものです。
乱世を描いているのに太平記。これがまさに怨霊信仰の表れなのだと、井沢さんは語っています。
日本人は、意識していなくても言霊(ことだま)を信仰しています。遠足の前に「雨が降ったら嫌だな」と口にして、本当に雨が降れば、「不吉なことを言うから雨が降ったじゃないか」と責められるのが、まさにこれに当たります。「雨が降ったら」と言って雨が降るのではないとわかっていながらも、それを口にした人を恨むのが言霊信仰なのです。
南北朝時代は、今よりも科学が進歩していませんから、現代人よりも言霊を信仰していたでしょう。だから、南北朝の動乱を描いた物語に「戦乱記」と名付ければ、それが現実のものとなってしまうと考え、作者はあえて内容とは正反対の「太平記」と名付けたというわけです。そして、口にしたことが現実になるのですから、作品に太平記と名付ければ平和な世の中が訪れる、そう願ったと考えられます。
徳のない主君に仕えてこそ忠臣
太平記に登場する楠木正成は、南朝の忠臣として描かれています。
忠臣とは、主君に忠実に仕える臣下だというのが一般的な解釈です。しかし、井沢さんはそうではないと指摘します。
例えば、本田宗一郎さんや松下幸之助さんのような偉大な経営者であれば、多くの人がその下で働きたいと思います。では、本田さんや松下さんの下で働いている人が、全て忠臣なのでしょうか?中には、会社の業績が悪くなると転職する人もいるはずです。そういった人を忠臣とは言えないでしょう。
つまり、忠臣とは主君に仕える限り絶対に裏切らない人のことを言うのであり、主君が愚かであればあるほど忠臣として評価されるのです。そう、楠木正成が太平記の中で忠臣として描かれているのは、後醍醐天皇に徳がなかったからなのです。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府転覆計画を二度失敗しています。そして、そのたびに部下を切り捨てています。日野俊基や日野資朝(ひのすけとも)が、後醍醐天皇にトカゲのしっぽのように切り捨てられた部下ですね。また、倒幕後は疲弊している民衆を顧みず、内裏の造営を計画したのですから、後醍醐天皇の支持率は当然下がっていきます。
そのような徳のない行いにより、後醍醐天皇は京都を追われ吉野に都落ちしたのです。
しかし、それでも後醍醐は反省の色をまったく見せない。彼の目には、自分が招いた混乱によって、どれだけ多くの人々が死にあるいは傷付いたか、まったく映っていない。挙句の果てに彼はなんと叫んで死んだか。
「四海を太平ならしめんと思ふばかりなり」―現代語で言えば、「私は平和を築くことだけが望みだった」ということだ。
(79ページ)
後醍醐天皇は、南北朝の動乱の原因を作ったのが自分だと最後まで気付きませんでした。欠徳の天皇と言われても仕方ないでしょう。
太平記の世界で怨霊となって暴れる後醍醐天皇
太平記は、前半は史実を描いていますが、後半は楠木正成や後醍醐天皇などが怨霊となって暴れる内容になっています。
これが、日本古来から続く怨霊信仰なのです。後醍醐天皇のように高貴な人が非業の死を遂げると世の中に災いをもたらす、古代から日本人はそう考えていたので、怨霊鎮魂のために様々な工夫をしてきました。神社の建設や祭りがそれです。
後醍醐天皇の怨霊も、敵方の足利尊氏が京都の嵐山に天龍寺を造営して鎮魂しようとしました。しかし、それでも乱世は続きます。だから、物語の世界で怨霊に好きなだけ暴れまわってもらえば平和が訪れるに違いない、そう考えて太平記の世界で後醍醐天皇たち非業の死を遂げた人々を活躍させたのです。
怨霊をなだめる、というのは一体どうすればいいのか。一番わかりやすいのが、「暴れみこし」である。普段神殿の奥に封じ込められている御霊を、御輿に乗せ思う存分暴れ回らせることだ。それによって、怨霊のフラストレーションは発散されるのである。
(141ページ)
日本人の怨霊信仰はいつまで続いたのでしょうか?
現在も続いているかもしれませんし、もう怨霊を信仰していない人の方が多いかもしれません。でも、明治時代には、まだ怨霊信仰が続いていたでしょう。
その証拠として考えられるのが、平安時代末期に起こった保元の乱で敗戦し讃岐に島流しとなった崇徳上皇の神霊を明治天皇が京都に戻したことです。崇徳上皇は讃岐で非業の死を遂げています。上皇が生存中でも京都で災害が起こると、その生霊の仕業だと人々は恐れました。
崇徳上皇は、最後まで京都に還りたいと言い続けましたが叶いませんでした。死の直前には大魔王になって呪い続けてやると言ったそうです。
その崇徳上皇の怨霊を鎮めるために明治天皇が神霊を京都に戻したのですから、近代になっても日本では怨霊を信仰していたのでしょう。
南北朝の騒乱は、最終的に北朝の勝利で終わり南朝は吉野の山奥で滅びました。北朝との徹底抗戦を望んでいた後醍醐天皇の遺志は叶わなかったのです。
以来、皇位は北朝系が続き、明治天皇の時代になった時、南朝と北朝のどちらが正統かという議論が持ち上がりました。勝者の北朝が正統だと言えば、後醍醐天皇の怨霊が暴れ出して再び南北朝時代のような乱世が訪れるかも知れません。
それを避けるため、すなわち怨霊を鎮魂するために明治天皇は南朝が正統だとおっしゃったのでしょう。
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