ウェブ1丁目図書館

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現実を見る薩摩藩と空想で動く長州藩

幕末の文久3年(1863年)という年は、多くの出来事が起こりました。

その中でも、長州藩薩摩藩が外国と戦争をしたことは、後の日本の歴史に大きな影響を与えます。長州藩薩摩藩も、外国との戦争で手痛い打撃を受けたのですが、両藩で、その捉え方は全く異なっていました。

一方は、まだまだ戦えると思っていましたが、もう一方は外国と今やりあっても勝ち目はないと思っていました。真逆の考え方を持っていた両藩が後に手を結び江戸幕府を倒すのですから、歴史とは、なんと不可思議なことでしょう。

現実を悟った薩摩藩

当時は、外国人を追い払う攘夷をほとんどの日本人が掲げていました。清国のように列強諸国に食い物にされないためには、外国人を1歩も日本国内に入れてはならないと考えていたのです。

孝明天皇も、同じように攘夷を望んでいたことから、攘夷こそ勤皇だと長州藩薩摩藩は考え、そして、どうすれば攘夷を実行できるかを思案していました。

しかし、一方で攘夷は不可能だと理解していた人もいました。幕臣勝海舟土佐藩坂本龍馬がその代表です。

他にも、薩摩藩主だった島津斉彬も開国の必要性を理解していましたが、この時にはすでに亡くなっていました。次の藩主の父である島津久光は、斉彬の遺志を継ごうと張り切りましたが、それが空回りし、薩英戦争を引き起こしてしまいます。

作家の井沢元彦さんの著書「逆説の日本史 20巻 幕末年代史編Ⅲ」では、薩摩藩長州藩が、外国と戦争した経緯についてわかりやすく述べられています。

薩摩藩が、イギリスと戦争になったのは、前年の生麦事件が原因です。生麦事件は、島津久光の行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬った事件です。これにイギリスが立腹し、薩摩藩に犯人の引き渡しと賠償金の支払いを要求しましたが、薩摩藩は無視し続けます。

イギリスは、幕府から賠償金を受け取ったのですが、薩摩藩を許さず、軍艦を鹿児島湾へ向かわせました。

イギリス艦隊が搭載していたアームストロング砲の威力は凄まじく、着弾すると炸裂し、周囲に大きな打撃を与えるものでした。一方の薩摩藩の大砲は、軍艦に着弾しても炸裂しない旧式の砲弾を使っていたので、どんなに大砲を軍艦に命中させても沈没させることはできませんでした。

薩英戦争は、台風の影響もあり、薩摩藩が引き分けの形に持ち込めました。

しかし、彼我の銃砲の威力には大きな差があり、現状では攘夷は不可能だと悟ります。攘夷を実行するためには、敵と対等の武器を持たなければならないと知った薩摩藩は、以後、外国から優れた武器を買い入れるようになります。

皇国は絶対に負けないと信じた長州藩

一方の長州藩は、下関を通過する外国船にいきなり砲撃する事件を起こしました。

朝廷では、この年の5月10日を攘夷実行の期日と定め、長州藩は、それに従って外国船を砲撃したのです。

これに怒ったアメリカとフランスは、順次、下関に艦隊を派遣し、艦砲射撃により、長州藩の砲台を破壊しました。一方の長州藩の大砲は、薩摩藩と同じような性能だったことから、アメリカやフランスの軍艦を沈めることはできませんでした。

ここでも、やはり、武器の性能に格段の差があったのですが、長州藩は、その現実を受け入れることができず、さらに攘夷を続けようとします。

彼等の考え方の根底にあったのは、天皇がいる国が外国人に負けるわけはないというものでした。性能の差は関係なく、大砲は大砲。味方も敵も大砲を持っているのだから、敗因は別にあるはずだと考えたのです。井沢さんは、このような長州藩の考え方を長州的観念論と呼んでいます。

長州的観念論の前では、天皇の軍隊は負けないことになっていました。現実として、アメリカとフランスに砲台を破壊されたにもかかわらず、長州藩がその結果を直視できなかったのは、長州的観念論が根底にあったからです。

では、彼等は、敗戦をどう捉えたのでしょうか。

小倉藩が一緒に戦わなかったから負けたのだ」と考えたのです。

そこで、長州藩は、小倉藩を攻撃しました。

その後も、長州的観念論に凝り固まった長州藩の攘夷派は、御所の警備を解かれ、池田屋事件の報復に御所を攻撃して負けても考え方を改めることはありませんでした。さらに四ヶ国艦隊に完膚なきまでに打ちのめされた後も、攘夷はできると信じ続けました。

勝海舟に救われた長州藩

どんなに苦境に立たされても、長州的観念論を捨てきれなかった長州藩でしたが、救いの手を差し伸べた人物がいました。

それは、勝海舟です。幕臣勝海舟にとって長州藩は厄介者でしかないはずです。しかし、勝海舟は、幕府の利益ではなく日本全体の利益を当時から考えていました。今、長州藩を潰すことは日本全体にとって不利益であると考えた勝海舟は、長州征伐の参謀であった西郷隆盛口説き長州藩を助けます。

西郷隆盛は、長州藩は邪魔者でしかないと思っていましたが、勝海舟が日本全体の利益を見て行動していることを知り、自らの考え方を改めました。西郷隆盛でさえ、当時は、日本全体の利益を考えていなかったんですね。


最終的に長州藩は破滅を免れました。それどころか、薩摩藩と手を組み倒幕を実現させ、政権を奪取しました。

しかし、長州的観念論を依然として改めることはありませんでした。それが、太平洋戦争の開戦と敗戦につながっていくのですから、幕末に長州藩を潰さなかったことが、将来の日本の利益になったのか疑問が残ります。