新型コロナウイルスが流行した時、毎日、感染者数がテレビや新聞で報じられていました。昨日は何人、今日は何人、累計で何人などといったように。
そのたびにコロナウイルスに恐怖する人もいたでしょう。でも、現在もコロナウイルスは存在し、感染する人もいますが、メディアで報じられなくなったため、当該ウイルスに恐れながら日々生活している人はほとんどいなくなっています。
結局、新型コロナウイルスに対する恐怖の感情は、感染者数が過剰に可視化されたから湧き出したものだったのだと、今では多くの人が思っていることでしょう。
感染者数の可視化が分断を生み出す
評論家の與那覇潤さんは、著書の『過剰可視化社会』で、日本のコロナ禍を深刻化させた最大の背景は、2010年代以降に本格化してきた「過剰可視化社会」の弊害があると述べています。
情報公開は必要なことですが、それが行き過ぎて、人々の日常生活の隅々まで見えるようにすることは、多くのストレスを我々に与えます。しかし、新型コロナウイルスの流行で、人々の行動が可視化されるべきだとの考えが急速に広まり、ワクチン接種の有無まで伝えなければならない場面が出てくるようになりました。
感染症の拡大防止のためなら、個人の自由や権利を制限してもやむを得ないとする感性の広まりは、全体主義へとつながりかねません。
感染者数の可視化は、流行の波をわかりやすくするものだったのかもしれませんが、それは、感染者数を減らさなければならないという目標を知らず知らずのうちに国民に植え付けてきました。そして、国民同士で、誰もがワクチンを打たなければならない、PCR検査を徹底しなければならないといった無言の圧力を加え合うような社会になっていったように思います。
感染者数の過剰な可視化は、個人の事情をおもんばかる姿勢を失わせ分断を生み出しただけでした。
ファクト重視がレッテル貼りを広める
新型コロナウイルスの流行時にファクト(事実)やエビデンス(科学的根拠)といった言葉をよく聞いたり見たりするようになりました。
これはファクトなんだから受け入れろ、エビデンスがあるから自分の主張が正しいという人が増え、自分の主張と異なる意見を持つ人に対して、様々なレッテルを貼る行為が目立ちました。以前から、ネトウヨやパヨクと言ってレッテルを貼る人はいましたが、さらに反ワクなどの言葉も生まれました。
陰謀論という言葉も聞く機会が増えました。陰謀論を信じるおかしな人だと非難する人ほど、ファクトやエビデンスという言葉を持ち出していたように思えます。
しかし、與那覇さんは、陰謀論もエビデンス主義も、「世界が多義的なものであることを拒絶し、単一の原理のみに回収しようとする」志向では通底していると指摘しています。どちらも、自分が信じるものが正しいという態度であり、相手がなぜ、そのような主張をするのかを考えようとしない点で共通していると言えるでしょう。
また、ファクトやエビデンスは、それを取り上げる人のイデオロギーと表裏一体であるとも、與那覇さんは述べています。自分はイデオロギーに染まっていないと思っていても、だいたいはイデオロギーに染まっているものです。
過剰な可視化がわかりやすさを求める
人々が可視化を過剰に望むのは、わかりやすさを求めているからなのでしょう。言い方を変えると、理解が困難な物事を避ける風潮が社会にまん延しているとも言えそうです。
物事が単純になれば理解しやすくなります。理解しやすくなれば、安心感を得られるといった発想が根底にあるのではないでしょうか。
人の行動が目に見えないと不安が増幅され、可視化されることで不安が解消されると考える人が増えるほど、物事を単純にしか考えられなくなりそうです。右か左か、白か黒か、賛成か反対かの二者択一の発想しかできない人が増えることで、社会の分断が起こるのでしょう。
可視化されていない部分があるから、人々は、相手の気持ちをあれやこれやと考えるのです。1つのファクトを突き付けただけで納得するというものではありません。
こうした観点を持てない稚拙なインターネット言論人が没入するのが、いわゆるポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の運動です。「意識の高い人が使うべき『正しい呼称』」をやたらと定めて、その基準に従わない人に「反知性主義」「歴史修正主義」「ミソジニー(女性憎悪)」などのお決まりのレッテルを貼る。
つまり敵味方をはっきり「可視化したい」という衝動こそが根底にあって、もっぱらそのツールとしてのみ、言語を用いているわけです。(89ページ)
目に見えない部分があるからこそ、人は想像力を働かせることができるのです。
なんでも可視化することは、人々から想像力を奪うことになるでしょう。