ウェブ1丁目図書館

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黒船来航と競争社会の到来

1853年の黒船来航は、明治維新のきっかけを作りました。

しかし、明治維新が実現するのは、それから15年後の1868年。黒船を見た当時の日本人は、カルチャーショックを受けたはずなのに国の体制を変えるのに15年もかかったのはなぜなのでしょうか。

考えてみれば、黒船ショックから明治維新までの15年は長すぎます。もっと短縮できたのではないかと思うのですが、それを妨げる何かがあったのでしょうか。

最も平和な国が最も危険な国に変わった瞬間

ところで、黒船来航がなぜ日本人に大きなショックを与えたのでしょうか。

作家の井沢元彦さんは、著書の「逆説の日本史 17 江戸成熟編」で、黒船の来航は、世界で最も安全だった日本を最も危険な国に変えたといった旨のことを述べています。

日本は、四方を海で囲まれた島国です。このような島国を侵略しようと思うと、多くの兵士を船に乗せて輸送しなければなりません。しかし、帆船しかなかった時代では、大軍を輸送するのは困難です。また、帆船だと、艦砲射撃をするのが困難だったので、大砲を載せてもその威力を発揮することができませんでした。

それゆえ、日本は外国からの侵略を受けにくかったのです。元寇の時も、騎馬戦を得意とするモンゴル軍は、十分な馬を船で輸送できなかったので本来の力を発揮できませんでした。

しかし、蒸気船の発明で事態は一変します。

大きな大砲をたくさん積むことができる蒸気船は、日本の沿岸近くから艦砲射撃が可能です。内海まで蒸気船を進めれば江戸城まで大砲の弾を飛ばすことも可能でした。

四方を海で囲まれている日本は、蒸気船を使えばどこからでも艦砲射撃できる攻めやすい国にいつの間にか変わっていたのです。そう、黒船ショックとは攻められるはずのなかった日本が、容易に侵略される国に変わったことを日本人に知らしめるものだったのです。

さらに250年の泰平の世に慣れた日本では、武器の性能を高めることは行われていませんでした。黒船来航は、日本人に西洋諸国との武器製造の技術格差も思い知らせたのです。

この2点が、黒船ショックだと井沢さんは述べています。

平和な社会が道路の舗装を遅らせた

江戸時代に入る前の日本は戦国時代でした。

戦国時代は、国内のいたるところで戦争が繰り広げられていた時代です。家は焼かれ、家族は殺され、食べる物は略奪され、人々は明日生きているかどうかもわからない恐怖の時代を生きていました。

それが、徳川家康によって天下が統一され、平和な世の中が築かれたのです。

当時の人々は、もう戦争はこりごりだと思ったことでしょう。

戦国時代から江戸時代への移行は、1945年の終戦と同じようなものだったはずです。「もう二度と戦争はしない」と思ったはずです。

そこで幕府は、大名が軍事力を高めることを規制していきます。城を勝手に築いてはいけない、新式の武器を作ってはいけない、金があったら公共事業に使え。こうやって大名の力を殺いでいきました。

「そんなことをしたら、海外から侵略されてしまうのではないか」というのは愚問で、日本は四方を海に囲まれているから外国からの侵略におびえる必要はなかったのです。スペインやポルトガルのように他国にキリスト教を布教して内乱を起こさせ侵略する方法もありますが、幕府はキリスト教を禁止し、布教活動による侵略も防止しました。

このような幕府の政策により、日本国内は平和を保っていました。

しかし、平和と引き換えに日本国内の技術革新は非常に遅くなります。その例が、道路の舗装率が低かったことです。現代の日本でも、道路の舗装率はそれほど高くなく、日本よりも近代化が遅かったタイや韓国よりも道路舗装率は低いです。

その一因と考えられるのが、江戸時代が平和だったことです。戦国時代を経験した日本人は、平和を望んでいました。平和を望む人々は戦争になりそうなことを排除するのが当たり前です。これは、現代も同じです。

風の如く速く移動することは、軍隊を他国に攻め込むために重要なこと。しかし、それは平和な世の中では無用になります。だから、道路を舗装する必要はなく、歩くか走るかして移動するのが江戸時代のスタンダードでした。馬車を使えば、速く移動できますが平和を愛する江戸日本人にとって、それは不必要な道具です。

だから、江戸時代には道路を舗装する必要性がなく、その影響で、現代の日本も他国より道路舗装率が低くなっているのです。

また、江戸時代は日本人が他国に渡航することも許されていなかったので、大船を建造することも禁止されていました。造船技術の向上をも放棄したことが、1853年の黒船ショックをより大きくしたに違いありません。

競争社会への転換

黒船来航で、多くの日本人が諸外国からの侵略を危惧するようになりました。

侵略を防ぐには、日本が防衛力を持つことが重要です。そこで、国内でも大砲の製造が行われ海岸に並べて侵略を防ごうとしましたが、250年間眠っていた日本が、西洋諸国との武器の性能の差を埋めることはすぐにできません。

だったら、開国して武器を輸入するか作れる技術を身に着けるしかありません。

しかし、泰平の世に慣れた日本人は、今の快適な生活を捨てることができません。江戸時代は現代と比較すると、とてものんびりとしていた時代です。夏の暑い日は仕事をしないのは当たり前。それで生活できていたのが江戸時代です。

何より、身分制度があったことも当時の人々を競争に駆り立てることはありませんでした。

身分制度がある時代では、分相応の生活をしなければなりませんでした。一見するとやりたいことができない不幸な時代に思えますが、分相応の生活をすることは、人々を競争から解放する利点もあったのです。

身分がある社会では激烈な競争というものは、ほとんど有り得ないのだ。
たとえば「我が藩において藩校に行けるのは身分の高い上士だけだ」というのと、「東京帝国大学には身分による入学制限はない。平民の息子でも入学試験は受けられる」というのと、どちらが競争が激しいか。言うまでもないだろう。明治の国家としてのスローガン「富国強兵」も、個人の目標であった「立身出世」も、その内容はライバルとの競争に勝つ、だ。(466ページ)

黒船ショックから明治維新まで15年かかった理由には、競争にさらされない社会の維持を求める人々の存在もあったのです。

開国すると、競争社会になるのではないか、そうなると今までのようにのんびりと生活できなくなる。

このような気持ちを持った人々が多かったことが外国人を排斥する攘夷運動を行い、国内ではテロが横行し多くの犠牲者が出ました。


黒船来航で、「開国しなければ侵略されるという危機感」と「従来の生活を維持したいという欲求」が、日本国民の心の葛藤となり、両者のせめぎ合いが明治維新を遅らせる結果となったのかもしれません。

これは、「物質的な豊かさ」と「心の満足」のどちらを優先するかという問題と似ています。

江戸時代の人々も現代人と考えることは同じだったのでしょうね。