征韓論争に敗れた西郷隆盛、江藤新平、副島種臣らが、官を辞して新政府を去りました。
征韓論は、武力をもって朝鮮を開国させようとするものであり、現在では考えられない外交手段です。しかし、明治初年の日本では、大多数の人々が征韓論に賛成の立場であり、議会で征韓論を反対した大久保利通や木戸孝允も、基本的には武力によって朝鮮を開国させるべきだと考えていました。
それなのに大久保利通は、征韓を主張する西郷隆盛と対立しました。
神功皇后の三韓征伐を信じていた
朝鮮を武力をもって開国させることを正しい行いだと、当時の日本人が信じていた背景には、神宮皇后の三韓征伐によって新羅が日本に服属したという神話があります。
現在では、三韓征伐は事実ではないと考えられていますが、三韓征伐を事実だと信じていた明治の政治家は、朝鮮は無礼だとし、武力を背景に開国させるべきだと考えます。
一体、何が無礼なのか。
作家の井沢元彦さんの著書「逆説の日本史 22巻 明治維新編」では、征韓論の経緯が詳しく解説されています。
明治元年に江戸幕府が倒れ、政権は徳川家から明治新政府に移行しました。そのため、新政府は、朝鮮にその事実を伝え、「これからもよろしく」といった感じで朝鮮との友好関係を維持しようとします。
ところが、朝鮮は、新政府と友好条約を結ぼうとしません。その理由は、明治新政府の親書の差出人が「日本国天皇」だったからです。「皇」の文字を使えるのは、中国皇帝だけであり、中国の周辺諸国は中国より下の立場であり、「皇」の文字を使うことは許されません。このような考え方は、中国の華夷秩序の中で通用するものですが、朝鮮では日本も華夷秩序の中にあると考えていたので、差出人が「日本国天皇」となっていることを認められなかったのです。
「もしも、日本と友好条約を結べば、清国(中国)との関係がどうなるのか」
それを危惧したから朝鮮は日本と交渉することを頑なに拒んだのです。
この態度が、当時の日本の政治家からは無礼に見えたんですね。
日清修好条規の締結
朝鮮と友好条約を結ぶためには、まず、清国と友好条約を結ぶことが先だと気付いた新政府は、日清間での条約締結を目指します。
そして、副島種臣の尽力により明治4年に日清修好条規が締結され、日本と清国が対等であることをお互いが認め合いました。中国の長い歴史で、周辺国を対等と認めることはありませんでしたから、日清修好条規は日本にとって画期的な条約締結です。
日本も清国と対等になったので、清国皇帝に遠慮することなく、朝鮮への親書の差出人に日本国天皇と記すことができます。だから、朝鮮が日本と友好条約を結び対等の関係になれば、朝鮮も清国と対等の関係になれます。これは、朝鮮にとっても大いに有益なことだと考えられますが、それでも、日本と条約を締結しようとしません。
朝鮮としては、まだ清国への遠慮があったでしょう。また、開国しなくても西洋諸国に侵略されないという自信もありましたから、日本と友好条約を結ぶ必要性を感じません。
なぜなら、朝鮮はフランスとの戦争に勝っていたからです。
朝鮮では、キリスト教の布教を認めましたが、その後、方針転換して、1866年にフランス人司教をはじめ国内信者8千人を虐殺しました。これに激怒したフランスは最新兵器を持った軍隊を朝鮮半島に派遣したのですが、朝鮮軍は旧式兵器でフランス軍を撃退します。
「西洋文明など恐れるに足らず」
だから、開国する必要もなしと考えたのです。
朝鮮の開国は日本が西洋諸国の侵略を受けないために重要なこと
とにかく日清修好条規が締結され、朝鮮と交渉しやすくなっていたので、西郷隆盛や板垣退助は朝鮮との交渉を議会で決議するようにすすめていきます。
ところが、洋行していた岩倉具視、大久保利通、木戸孝允が日本に帰ってくると、征韓論に反対し始めました。
西郷隆盛は、自分が使節として朝鮮に行き、条約締結の交渉をするつもりでした。話し合いで朝鮮との条約締結が決まれば良いのですが、場合によっては朝鮮が西郷隆盛を殺害する可能性もあります。大久保利光や木戸孝允は、それを危惧していましたが、西郷隆盛は自分が死ぬようなことがあれば、朝鮮を武力で開国させる口実ができると主張します。
最終的に岩倉具視や大久保利通が内政に力を入れるべきだという方針を示したことで、西郷隆盛が使節として朝鮮に行くことは認められませんでした。そして、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣らが下野したのです。
朝鮮の開国は、日本が西洋諸国に侵略されないために重要なことでした。もしも、朝鮮半島が西洋諸国に支配されれば、次に日本が狙われるかもしれないという危機意識は、西郷隆盛ら征韓論を支持した政治家だけでなく、大久保利通にもありました。
それなのに大久保利通は、なぜ、征韓論に反対したのでしょうか。
井沢さんは、大久保利通が独裁体制を築くために征韓論に反対したと考えています。大久保利通が洋行している間、新政府は土佐藩や佐賀藩出身者が議会に参加するようになっていました。大久保利通は、彼らが政府にいたのでは、自分の理想とする政治ができないと考え、征韓論をつぶし板垣退助や江藤新平を政府から追い出したのです。
西郷隆盛らが下野した後、大久保利通は台湾に出兵し、朝鮮も江華島事件を起こして武力で開国させ日朝修好条規を締結しています。これを見ても、大久保利通が内政に力を注ぐべきだと主張したのは、政敵を排除することが目的だったと考えられます。
征韓論争の時の大久保利通と同じことが、現代の国会でも、よく見られます。
政敵をどうやって追い落とすかが重視されるあまり、国民の利益が後回しにされるのは、明治新政府の時代から変わっていないようです。
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