嘉永6年(1853年)に浦賀にペリーが来航したことは有名な歴史的事実です。
当時の日本人は、この時初めて西洋諸国と自国との間に大きな技術力の差があることを認識したとされています。ペリーが乗ってきた黒船なんてものは、これまで全く見たことがなく、その大きな船体が江戸市民を震え上がらせ、アメリカの言うがままに開国し不平等条約を結ばされたというのが日本史の通説となっています。
しかし、江戸市民が、自分たちより技術の進んだ大型船を目撃したのはペリー来航が初めてではありません。もっと前に巨大な船を江戸近海で目撃していたのです。
始まりは1791年
日本人が、初めてアメリカ船を目撃したのは、寛政3年のことです。西暦だと1791年です。
寛政と言えば、松平定信の寛政の改革でその元号を知っている人が多いと思いますが、その頃にすでにアメリカ船が和歌山県に来航していたのです。
アメリカ船の来航の目的は一体なんだったのでしょうか。
作家の井沢元彦さんの「逆説の日本史 18 幕末年代史編Ⅰ」によれば、アメリカ船は日本との友好親善を求めていたとのこと。決して日本を植民地支配するために来航したのではありません。
アメリカが中国と取引をする場合、西海岸から太平洋を横断するのが近道です。これに対して、イギリスなどのヨーロッパ諸国は、アフリカとインドを経由して中国に向かうのが近道です。
アメリカが中国に向かう場合、その途中で燃料や食料を補給できる場所があった方が便利です。そこで、目を付けたのが日本でした。日本に寄港できれば、航海がこれまでよりもずっと楽になります。
また、アメリカは太平洋で捕鯨も行っていましたが、同じように日本に寄港できれば船員たちは休息しやすくなります。
最初に日本にやって来たアメリカ人は、ジョン・ケンドリックでした。彼は、交易を目的に堺を目指しましたが、天候不順により和歌山にやってきました。そして、毛皮を売ろうとしたのですが、南国和歌山では無用な品物だったのでまったく売れませんでした。
ジョン・ケンドリックの次に日本にやってきたのは、ウィリアム・スチュアートです。彼は、日本に開国を求めようとオランダ船で長崎の出島にやって来ましたが、その目的を果たすことはできませんでした。
モリソン号事件
ジョン・ケンドリックが来航した後、ロシアのラクスマンも函館に来航しています。その後も、外国船が日本にちらほらとやって来るようになりましたが、日本人を驚かせたのは、文化5年(1808年)に長崎にやって来たイギリス船のフェートン号でした。
フェートン号は、オランダ船と偽って長崎に来航し、無法な行為を働きます。これが幕府を刺激し、外国船を見たら有無を言わせず追い払えという無二念打払令を発しました。
不幸だったのは、天保8年(1837年)に来航したアメリカのモリソン号でした。モリソン号は、日本人漂流民を日本に届け、それをきっかけに日米で有効な関係を築こうとして来航したのですが、無二念打払令が出されていたため、日本に近づこうとした時に砲撃を受けました。しかし、日本の大砲がお粗末なものだったため、モリソン号は被害を受けることはありませんでした。
このモリソン号事件は、日本国民が、アメリカとの技術力の差を体感した事件だったのですが、江戸幕府は全く国防に対する意識を変えようとしませんでした。
アヘン戦争とオランダ国王の開国勧告
モリソン号事件から3年後の1840年。
イギリスと清国との間でアヘン戦争が起こります。
アヘン戦争は、イギリスが麻薬のアヘンを清国に売りつけていたことがきっかけで起こった戦争です。アヘン戦争では、清国が敗北し、イギリスに多額の賠償金を支払い、領土の一部を割譲することになりました。
アヘン戦争の結果を知った幕府首脳は震え上がり、とりあえず無二念打払令を緩和します。
アヘン戦争から4年後の1844年には、オランダ国王が日本に開国勧告を行います。「資源に乏しいイギリスは、武力で清国を屈服させるような、貿易よりも戦争を優先する国だから、日本も早く開国しないと清国と同じ目に遭うぞ」と教えてくれたのです。しかし、幕府首脳は、「鎖国は徳川家康公が作った祖法なので変えることはできない。だから、これまで通りの関係で頼むよ」とオランダ国王の勧告を無下に断ったのです。
そもそも、鎖国は祖法でもなんでもありません。徳川家康は貿易を推進していましたが、キリスト教が国内で広まるとテロが起こるので外国との交易を制限していただけです。それを当時の多くの日本人が勘違いしていたのです。
ビッドルの来航
弘化3年(1846年)に再びアメリカ船のコロンバス号が日本にやって来ました。
やってきたのは浦賀です。
コロンバス号に乗っていたビッドルは、日本との貿易を望んで来航したのですが、相変わらず幕府首脳は、鎖国を理由にアメリカとの交易を拒否します。そして、ビッドルに外交の窓口は長崎になっているから、浦賀からすぐに立ち去るように伝えました。
ビッドルの後に来航したのがペリーでした。
ペリーは日本のこれまでの態度を研究し、穏やかな交渉では何も進展しないと考え砲艦外交に切り替えました。浦賀にやったきた蒸気船は、これまでとは違う異様な雰囲気を漂わせていたのでしょう。遂に幕府もアメリカの要求を受け入れるしかなくなり、開国を決断します。
しかし、これまで外交について何も準備をしていなかったため、日米両国で結ばれた条約は日本にとって不利なものとなり、さらにヨーロッパ諸国やロシアとも不平等条約を締結しなければなりませんでした。
日米間での為替レートも、アメリカに有利なように決められ、日本国内は急激にインフレが進み、庶民の生活は苦しくなっていったのです。
やがて、明治となり日本も近代化を成し遂げましたが、江戸幕府が結んだ不平等条約はなかなか解消することができませんでした。関税自主権が回復するのに半世紀ほどかかっていますから、この期間はまさに「失われた50年」だったと言えるでしょう。
日本は、1853年のペリー来航時にいきなり開国を迫られたと思われがちですが、実は日本が開国するまでには約50年の猶予期間があったのです。しかし、当時の幕府が外交に無策だったため、西洋諸国に有利な条件で開国させられてしまったのです。
もしも、オランダ国王の勧告を受け入れ開国していれば、不平等条約の締結を回避できていた可能性があります。そうすれば、西郷隆盛と大久保利通もケンカせずに済んだかもしれませんね。
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