人類の歴史の中で、戦争は何度も繰り返されてきました。為政者の権力争いは、何の罪もない民衆を巻き込み、多くの犠牲者を出してきました。
しかし、第2次世界大戦を除き、当時の民衆が戦争とどう付き合っていたのかを学ぶ機会はほとんどありません。そのため、大昔に起こった戦争で民衆がどのような被害を受け、どうやって立ち直ってきたのかを知っている人は少ないのではないでしょうか。
国内最初の近代戦となった京都
2017年に行われた一般公開シンポジウム「日本史の戦乱と民衆」をもとにした書籍『戦乱と民衆』では、日本史を専門とする磯田道史さん、倉本一宏さん、F・クレインスさん、呉座勇一さんが、戦争の中で、民衆がどう生き抜いてきたのか、史料をもとに解説しています。座談会の内容も収録されており、戦乱の中の民衆を知るきっかけとしては読みやすくなっています。
本書では、白村江の戦い、応仁の乱、大坂の陣、禁門の変が取り上げられています。
国内で最初の近代戦となったのは、京都でした。元治元年(1864年)に起こった禁門の変がそれです。前年に京都政界から追い落とされた長州藩が、京都に攻め込んできた禁門の変は、御所を守る幕府、会津、薩摩によって返り討ちにあいました。
戦いが起こる前は、京都の民衆は戦争の実感がなく、避難しなかったようです。応仁の乱や大坂の陣の時代には、いざ戦争が始まるとなると、民衆はすぐに避難をしていたのですが、明治維新の頃には、そのような行動を取る人はいなかったようです。
一度、戦争になれば町が焼けるというのは遠い昔のことだったのでしょう。禁門の変の時は、長州軍が京都に迫って来ても、火事になるから荷物を持って逃げようとする人はおらず、むしろ、合戦は稼ぎと見物の場だったとのこと。平和ボケと言ってしまえば、それまでですが、まさか、この後、京都の大部分が焼失するとは想像できなかったようです。
会津と薩摩が放火
返り討ちにあった長州軍は、京都から撤退を始めます。
この時、会津藩や薩摩藩は、長州の潜伏ゲリラを恐れて、家屋に火を放ちました。その火が京都中に燃え広がり、途方もない大火災となります。もちろん長州藩も放火をしましたが、京都市民は、会津藩が火を放ったことをしっかり見ていたので、その後、京都では会津藩は嫌われ者になっていきました。
この時の火災で、祇園祭に登場する山鉾もいくつか焼失しています。近年、復元された大船鉾も禁門の変で焼失しており、復活に150年の歳月を費やしました。
たくましく生きた者たちもいた
日本では、合戦の後に乱取りと呼ばれる略奪が行われるのが当たり前でした。大坂の陣でも、徳川方が乱取りを行っていることはヨーロッパの史料に記されています。
禁門の変でも、勝利した会津藩が、戦いの後に略奪を行ったかというと、そのようなことはありませんでした。それどころか、幕府は、被災者に米と銭を配り、薩摩藩も施米を行い、加賀藩も被災者を助けるために動いています。
戦国時代までは、当たり前に行われていた略奪が幕末には行われなくなっていたのです。磯田さんは、島原の乱の後、1650年頃が時代の境目になっているのではないかと語っています。禁門の変が起こる前に京都市民が避難しなかったのも、略奪の危険がなかったことが理由なのかもしれません。
しかし、略奪が全く行われなかったわけではありません。確かに戦争の張本人である武士たちによって略奪は行われなかったようですが、民衆の中には、夏場に異臭を放つ遺体から金品を盗む者がおり、そのお金で新京極あたりで商売を始め成功した者もいたとのこと。戦争は、多くの民衆に被害を与えますが、一方で、これをチャンスとばかりに成り上がる者もいたのです。
応仁の乱の頃も、土一揆に参加していた者が、戦が起これば足軽として働くこともあったようです。時には民衆の側に立ち、時には権力者の側に立つといった立ち回りを演じ、のし上がっていった民衆のたくましさも歴史の中に見ることができます。
15年間焼け跡が放置された京都
禁門の変で焼けた京都の町が復興し始めたのは、明治10年(1877年)頃でした。約15年の間、京都の町には焼け跡が残っていたのです。このような事実は、あまり語られることがありません。
ところで、なぜ15年もの間、京都は放置されたのでしょうか。その理由は、金融システムの破壊です。復興に必要なお金を貸すものがいなくなった京都では、新たに家を建てることができず、深刻な住宅不足となっていました。
禁門の変が起こるまでは30万人都市だった京都ですが、明治4年には23万人まで人口が減っています。首都が東京に遷ったのは、禁門の変と無関係とは言えないでしょう。
倉本さんは、「歴史から学ぶ教訓がもしあるとするなら、人は歴史から学ばないということ」と述べています。だから、人は何度も同じ過ちを犯すのです。歴史を通じて学べることは、それでしょう。
誰が天下を取ったとか、そういことは民衆にとって重要なことではありません。被災地がどうやって復興していったのかを知ることの方が大切でしょう。