今、その意義が失われつつある教養。
原因を作ったのは、人工知能(AI)です。AIの出現は、これまで人の武器であった教養を陳腐化させ、単なる雑学にまで地位を低下させました。これから、AIがますます発展していくことが予想される中、人が教養を身に付ける必要性はあるのでしょうか。
記憶力と論理的思考は教養から外れていく
多摩大学大学院の名誉教授である田坂広志さんは、著書の『教養を磨く』の中で、かつての教養とは、多くの本を読み、様々な知識を学ぶことだったが、現代では、記憶した知識や論理的な思考はAIに取って代わられるので、それらの重要性は低くなると指摘しています。
すでに記憶に関しては、コンピューターの発達により重要性が失われつつありました。これにより、記憶面はコンピューターに任せ、人は論理的に物事を考える方に重点を置くことで、自らの存在価値を高めることができました。しかし、その論理的思考もAIが代替するようになると、記憶と同様に重要性が失われていきます。
このような状況で、記憶力や論理的思考を磨くことを目的に知識を習得することは必要なのでしょうか。
学ぶべきは人間性
記憶力も論理的思考もAIに代替される未来では、人が学ぶべきことは「人間としての生き方」だと田坂さんは述べています。読書と知識を通じて、人間としての生き方を学び、実践することが、これからの教養なのだと。
例えば、セールスについて考えてみると、これまでは、どのように商品を陳列するか、客に対しての声掛けはどうするのが効果的か、今流行している商品を探すにはどうしたら良いか、そういったテクニック面での知識の習得と実践で売上を伸ばすことができました。
しかし、そのようなテクニックは、AIが勝手にやってくれる時代が到来するのは目に見えています。店内に設置したカメラで人の動きを確認し、客の動きを分析すれば、商品をどこに陳列するのが効果的かわかります。そして、人がずっとモニターの前に座って、客の動きを確認し続けるより、カメラの映像をAIに分析させた方が、格段に売上につながりやすい陳列の仕方がわかるはずです。
こういったテクニック面での知識は、最初は効果があっても、やがて真似されたり、AIが代替するようになると、あっという間に役に立たなくなります。何より、どの店でも同じ対応をされた客は嫌な気分になります。これは、AIが存在しなかった時代でも同じでしょう。
このように考えると、記憶力や論理的思考は、そもそも教養と呼ぶべきものではなかったのかもしれません。より良い社会を築くのに本当に必要なことは、テクニックの習得ではなく、人間性を磨くことであり、それこそが真の教養なのでしょう。
自分の感情を観察する
田坂さんは、人間性を磨く方法として、様々な場面で自分の心がどう揺れ動いているかを静かに観察することを挙げています。自分自身が、成功や失敗、勝利や敗北、順境や逆境、幸運や不運、希望や不安、高揚や落胆といった状況に置かれた時、どのような感情を抱くのか。その「内観」の習慣を持つと、「人間は、こうした状況で、こうした心境になるのか」「こうした言葉を言われると、こういう気持ちになるのか」ということを、深く掴めるようになるそうです。
自分が不快に感じたことを他人にしないということは、多くの人が意識していると思います。不快なことに関しては、いろいろと考えることがあるからでしょう。しかし、成功、勝利、幸運といった嬉しい感情については、深く分析せず、一時的に湧き上がった感情として過ぎ去っていくことが多いのではないでしょうか。
だから、セールスのテクニックを磨いて、巧みな話術を繰り出しても、客の心に響かず、自分の売りたいという意図が見すかされてしまうのです。生成AIが作り出した言葉に感動を覚えないのと同じです。
AIが発展していけば、将来、テクニックで行動を誘導される社会になっていくかもしれません。そんな社会に生きていて何が楽しいのか。そう考えた時、AIにできず人間にできることは何かがわかってくるはずです。しかし、その答えはすぐには出てこないでしょう。でも、それを問い続けることが人間社会の発展につながっていくのです。真の教養は、問い続けることで磨かれるものなのです。
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