ウェブ1丁目図書館

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日韓関係の悪化は明治維新までさかのぼる

現在の日本は、韓国や中国と政治的に良好な関係にありません。

韓国との関係が悪いのは、かつて、韓国を併合したことが理由です。また、中国との関係が悪いのは、日中戦争が理由です。しかし、これらは、すでに日韓関係や日中関係が悪化した後に起こっていますから、現在も続く、韓国や中国の反日感情の起源ではありません。

今も残る両国の反日感情は、明治維新までさかのぼります。

国内の不満を海外に向けさせた明治政府

現代日本経済史を専門とする原朗さんの著書『日清・日露戦争をどう見るか』を読むと、明治以降の日本政府は、朝鮮半島を支配するために対外戦争を行っていたことがわかります。

日清戦争日露戦争は、日本と戦った相手国の名で呼ばれていますが、太平洋戦争のように戦場となった場所から見ると、それらは朝鮮戦争と言えます。原さんは、これらの戦争を第一次朝鮮戦争、第二次朝鮮戦争と呼ぶのが適切だと述べています。

そして、明治・大正・戦前昭和の日本は、朝鮮、中国、ロシアとのあいだで、ほとんど絶えまなく紛争をくりかえし、軍事的行動に解決を求めていたと指摘しています。

さて、韓国の反日感情が湧き出した原因は何かを考える場合、1871年に日本が清国と結んだ日清修好条規までさかのぼる必要があります。この条約は、日本と清国で領事裁判権を相互に認め合うなど対等な条約でした。日本が、欧米諸国に近代国家だと認められるためには、他国と条約を結んでいく必要がありましたが、日清修好条規は、朝鮮の宗主国である清国と日本が対等になることで、朝鮮に対して日本が有利な立場になることも狙ったものでした。この時点で、明治政府は、将来的に朝鮮半島を日本の領土にする野心を持っていたといえるでしょう。

その後、日本国内で士族が明治政府に不満を持ち、各地で反乱を起こします。当時の政府のトップであった大久保利通は、士族の反乱を抑えるため、国内の関心を外に向かわせようとします。その目的で行われたのが、台湾出兵であり、朝鮮の開国だったのです。江華島沖で挑発的な行動をとる日本の軍艦は、朝鮮の砲台と交戦。これを契機に1876年に日本は軍艦で朝鮮を威嚇し、日朝修好条規を結ばせました。

日朝修好条規では、日本と朝鮮が平等であると規定し、清国の朝鮮に対する宗主権を否定しようとする狙いがありました。そして、日本が幕末に欧米諸国と不平等条約を結ばされたのと同じ手法で、朝鮮に治外法権関税自主権を認めませんでした。

甲申事変と天津条約

日朝修好条規で開国させられた朝鮮では、近代化を進める日本にならおうとする開化派と中国中心の冊封体制を維持しようとする守旧派の対立が始まります。守旧派は、開化派に対して軍隊を使って政権転覆を図りましたが、朝鮮にいた清国軍が介入することで事態は収拾。1884年12月には、金玉均ら開化派がクーデターを起こし新政権を樹立する甲申事変が起こるも3日で崩壊し、朝鮮の内政・外交の主導権を清国が握るようになりました。

このように朝鮮を巡って日本と清国との間で対立がありましたが、1885年4月に両国間で天津条約が結ばれ、朝鮮から両国が撤兵すること、将来の派兵の際は事前通告することを承認し合いました。

甲午農民戦争から日清戦争

1894年春から、朝鮮では、東学党らを中心に農民が反乱を起こし甲午農民戦争が始まります。

彼らのスローガンは、日本と西洋の駆逐、特権階級の打倒、ソウル進撃で、反乱軍は全羅道の全州を占領しました。これに対して、朝鮮国王は、清国に援兵を求めます。

日本も、朝鮮で反乱が起こったとの報が伝えられ派兵が決定されます。また、清国も属邦保護のため出兵すると日本に通告してきました。しかし、日本は、日朝修好条規を盾に朝鮮は清国から独立しているのだから、清国の属邦ではないと反論します。

清国は日本に対して戦争回避のメッセージを伝えるものの、日本は天津条約を根拠に派兵を決定し清国に通告します。

日本と清国の介入で、朝鮮の農民軍は同年6月に朝鮮政府と全州和約を結んで撤退しました。これで解決したかに見えましたが、日本が清国に共同で反乱鎮圧と朝鮮の内政改革にあたることを提案したのを清国が拒否したことから、日本は朝鮮の内政改革実現まで撤兵しないと通告します。

同年7月16日に日英通商航海条約が調印されると、虎の威を借る狐のごとく、日本は7月20日に朝鮮に対し清国への宗属関係破棄の最後通牒を突き付け、22日までに回答がなければ朝鮮政府内の大改革を行うと脅迫。そして、7月23日に朝鮮王宮を攻撃して、朝鮮軍武装解除し、王宮を占領しました。

その後、7月25日に豊島沖海上戦、30日には清軍を平壌に敗走させ、8月1日に清国に対して宣戦布告を行います。日清戦争は、8月1日の宣戦布告からではなく、甲午農民戦争から始まっていたといって良いでしょう。

日清戦争は、最終的に日本の勝利で終わり、1895年4月17日に下関条約が締結されます。条約の第1条では、朝鮮の自主独立が記入されました。これにより朝鮮の独立が果たされたかのように見えますが、この後、日本が、あの手この手と策を弄し、朝鮮半島を日本の領土にしていきます。


日本は近代化を進めていく過程で朝鮮半島を支配しました。明治以降の政府は、欧米諸国がやっている植民地政策を真似することが正しい道だと考えていたように思います。しかし、現在の日韓関係や日中関係を見ると、欧米諸国の真似をしたことが日本の将来に難題を残したと言えるでしょう。

大久保利通が、国内の不満を外に向けるため、対外的な軍事行動をとらなければ、現在の日韓関係も日中関係も違っていたかもしれません。

他国がやっているから日本もやる。そのような政治は、今も続いています。


本書は、現在の日韓・日中関係を考えるのに必要な歴史の事実が解説されています。なぜ、韓国と中国の反日感情が今も続いているのか詳しく知りたい方に一読することをおすすめします。