ウェブ1丁目図書館

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楽市楽座が皮肉にも本能寺の変を成功させた

1582年6月2日に京都で本能寺の変が起こりました。

天下統一までわずかなところまで来た織田信長を家臣の明智光秀が討ち取り、再び世の中は戦国乱世に逆戻りするかに思われたのですが、その後、豊臣秀吉明智光秀を倒し順調に天下を統一していきました。

明智光秀が謀反を起こし、織田信長を討ち取った理由はいろいろと噂があります。どの噂も納得がいくものですが、真意は明智光秀に聞いてみなければわかりません。でも、明智光秀本能寺の変を成功できた理由は容易に想像できます。

既得権益を破壊した織田信長

多くの人の織田信長に対する印象は、恐ろしい性格の持ち主といったものでしょう。既得権益の破壊者という印象を持っている方も多いはずです。

織田信長は、これまで大きな権力を持っていた比叡山を焼き討ちしたことで知られています。この時に女性や子供まで虐殺したことから恐ろしい性格の持ち主だという印象が持たれたのでしょう。そして、当時は寺社が強大な権力を持っていたことから、比叡山の焼き討ちが既得権益の破壊者という印象を後世の人々に植え付けたのだと思います。

当時の寺社は、関所を設けて通行料を取ったり、門前市を開いて商人からテナント料を取っていました。この2つが寺社の権力を大きくした理由の1つです。

織田信長は、この2つの既得権益を嫌いました。関所や市場の利用に料金を徴収されていたのでは、彼の政策がうまくいかないからです。それが、織田信長既得権益の破壊者とさせたのです。

座の発展

室町時代には、いたるとこに関所が設けられました。室町幕府が設置したものもあれば、寺社勢力などが勝手に設置したものもありました。

室町時代に多くの関所が設けられた理由については、作家の井沢元彦さんの著書「逆説の日本史8 中世混沌編」で解説されています。本来、関所は検問所の役割を果たしていたのですが、いつしか関銭(通行料)を徴収するためのものに変わっていきました。

もちろん、その中には政府(足利幕府)公認の、公的資金(祭祀や行政の費用)を徴収するためのものもあった。これを新関に対して本関という。つまり、こういう形で「流通税」を取っていたのである。
しかし、問題は中央政府が設けたもの以外に、大名や寺社が勝手に設置した「新関」がいたるところにあったことだ。
これは現代にたとえれば、高速道路に道路公団の料金所以外に、自治体や地元企業が勝手に料金所を設けるようなものだ。
(258ページ)

商人は、物を売るために移動する際、1つの関所で何ヶ所にも関銭を払わされていました。このような状況では、売値に関銭分が上乗せされて小売価格が高くなってしまいます。物価が上がれば消費が冷え込みますから経済は悪化します。いたるところに関所が設置されていれば物流にも制限が出ます。

しかし、寺社勢力や大名も経済が衰退しては困ります。関銭で稼ぐと言っても、物を売るために関所を通る人がいなくなると収入は減ります。そこで、考え出されたのが「座」と呼ばれるものです。

寺社勢力や大名は、特定の商人に関所を自由に通行できる権利を与え、その代わりに売上や利益の一部を徴収することにしました。そして、油などの商品を製造販売するためにライセンスを与え、ライセンスを持たない商人の新規参入を防ぎます。勝手に市に出店して安い値段で油を販売されると競争が起こり、安定的に税を徴収できなくなるからです。

しかし、座の存在や市を自由に利用できない状況では、経済は発展しません。

それを理解していた織田信長は、寺社勢力の既得権益を破壊し始めたのです。

楽市と楽座で誰でも自由に商売できるように

経済の発展のためには、寺社勢力の許認可権と特権商人の独占の廃止が重要課題となります。

そして、市場にたくさんの商品や人が集まるようにすることも必要です。そのためには、物の行き来を自由にできるように関所を撤廃して物流改革をしなければなりません。市場もこれまでの門前町のような小さなものでは効果がないので、大都市の造営も必要です。

寺社勢力は武力を持っていたので、彼らから特権を取り去るためには、より強大な武力を持っていなければなりません。寺社勢力よりも大きな武力を持った集団、それは武士です。そう、この仕事は武士でなければできないのです。だから、商人ではなく武士の織田信長が寺社勢力の既得権益排除に乗り出したのです。

織田信長は、比叡山を焼き討ちし寺社勢力の力を殺ぎます。それにより、織田領内では座がなくなりました。また、領内の関所も撤廃し、物流も発展させます。そして、大きな城下町も整備し、誰でも市場で商売ができる楽市を発達させました。


織田領内では誰でも自由に商売ができるという噂が近隣に飛ぶと、多くの人が織田領内にやってきて城下町で商売をするようになりました。

一方、織田と敵対関係にあった武田領内では、百姓たちが城郭の整備などに徴発され、重たい税も課されていました。そのため、武田領内の領民たちは、織田信長が武田に取って代わることを望んでいたようです。

時代は、戦国大名や寺社勢力ではなく、彼らの既得権益を破壊する織田信長を望んでいたのです。

封建制社会と自由経済は両立しない?

しかし、商人たちから望まれていた織田信長は、明智光秀によってあっけなく討ち取られてしまいます。

井沢さんは、明智光秀織田信長を簡単に討ち取れたのは、楽市楽座がその理由の1つだと考えています。

織田信長は、領内の関所を撤廃して物の行き来を自由にしました。それは、つまり人馬の移動も容易になったということです。したがって、織田領内では誰でも簡単に軍隊を動かせたのです。

本能寺に宿泊していた織田信長の元には少数の家臣しかいませんでした。しかし、この情報を知っていても、領内のいたるところに関所があれば、人馬の通行に時間がかかり、そうこうしている間に織田信長の耳に明智光秀謀反の報せが届くはずです。

ところが、領内に一切関所がないのですから、明智光秀が「敵は本能寺にあり」と宣言してから織田信長を討ち取るまでには、さほどの時間はかかりません。

楽市楽座と関所の撤廃。経済の活性化には優れた政策でしたが、独裁政権が倒れやすいもろさも持っていたのです。


本能寺の変の教訓は豊臣秀吉徳川家康に受け継がれます。豊臣秀吉京都市街を囲むための御土居を造営しましたし、徳川家康も多くの関所を設置して安全保障に力を入れました。

特に家康は、「経済が大切なのはわかるが、関所全廃はやはりやり過ぎだ」と考えた。だから徳川政権というものは、関所を重んじた政策をとっている。駿河静岡県東部)と遠江静岡県西部)の国境である大井川に橋をかけなかったのも、「経済より治安優先」という政策あってのことだ。
(270ページ)

封建制社会では、統治者がその地位の保全のための政策を重視します。だから、居城に攻め込まれないように交通の要所には関所を設置しなければなりません。しかし、関所があると物流が発展しないので経済成長が鈍化してしまいます。

このような理由から封建制社会と自由競争の両立は難しく、封建制社会では経済が発達しにくいのでしょう。現代の独裁国家の経済が民主主義国家よりも発展していないのは、安全保障に多くの予算を割かなければならない事情があるからなのかもしれませんね。