ウェブ1丁目図書館

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不合理な選択をするから人間味がある

AランチとBランチのどちらがコスパが良いか。
今吸うこの1本のタバコから得られるリラックスと将来の健康不安を天秤にかけた場合、タバコを吸うべきか。

人生には大きな選択を迫られることもありますが、日々、このような小さな選択をしなければならない場面に出くわします。そして、良い選択をできることもあれば、悪い選択をしてしまうこともあります。それもまた人生。

しかし、できることなら、いつも良い選択をしたいものです。

選択には制約がある

もしも、我々がコンピュータのような頭脳を持っていれば、AランチとBランチのどちらを注文するか、時間をかけて悩むことはないでしょう。カロリー、栄養素、原価率を瞬時に把握し、支払う代金と比較して効用が高い方を選ぶだけです。

でも、ランチを食べるときにこのようなことを考える人はほとんどいないでしょう。「昨日は肉だったので、今日は魚にしよう」とか、「このところ和食が続いていたので、たまには洋食にしてみよう」とか、「たまには贅沢して高い方を食べよう」とか、あまり合理的とは思えない理由でランチを選んでいるものです。

伝統的経済学では、コンピュータのような頭脳を持った合理的な行動をする人を前提にして理論が構築されてきましたが、行動経済学では、もっと人間味のある人を前提として理論を構築しようします。

情報通信経済学、行動健康経済学を専門とする依田高典さんの著書「行動経済学」は、新書にしてはやや難しいですが、行動経済学の全体を捉えるのに役立つ良書です。

本書は、「人々は限られた情報をもとに、限られた時間の中で、限られた能力を用いて、良かれと思って最善の行動を選びながらも、それでもしばしば後悔をしてしまう」という文章から始まります。何を当たり前のことを言っているんだと思ってしまいますが、伝統的経済学が見落としていたのが、まさにこの人間の当たり前の行動だったのです。

コスパを計算すれば、毎日、Aランチを食べるのが正解でも、時にはBランチを食べますし、他のお店で昼食を食べることだってあります。なぜ、そんな不合理なことをするのかと問われても、「いや、毎日、Aランチというのも・・・」といった漠然とした答えしか出てこないものです。

個人が市場から淘汰されるか

企業は、利益を獲得するために存在する組織です。

利益を生み出せなくなった企業は、やがて倒産し、市場から退場することになります。だから、企業が存続するためには、消費者のニーズに合った商品を市場に投入し続けなくてはなりません。利益を得るためには、合理的な行動を取る必要があります。

では、個人が合理的な選択をできなかったからと言って、すぐに人生が崩壊するかと言えば、そのようなことはありません。安売りに釣られて必要のないものを買ってしまったという経験は誰にでもあるでしょうが、それが、社会から淘汰されるほどのまちがった選択だったということはないでしょう。

そうすると、個人が常に合理的な行動をしなければならない理由は乏しくなります。一度でもBランチを注文したら、社会から抹殺されてしまうこともありません。コスパの悪いBランチを食べたところで咎められることはありません。「やっぱり、Aランチにしておけば良かった」と後悔することはありますが。

ヒューリスティクス

人は、何か格言めいたものにしたがって行動することがあります。

例えば、急がば回れ。ゴールに向かって一直線に進むより、遠回りをした方がかえってうまくいく場合があるといった意味の格言ですが、普通に考えれば、まっすぐ正面突破する方が速くゴールにたどり着けるはずです。それでも、「急がば回れ」という格言がしばしば人の口から出てくるのは、遠回りしてうまくいったことがあるからでしょう。

人には、限られた時間や情報の中で、意思決定を行わなければならない場面が何度も訪れます。その時、頼りにするものの一つがヒューリスティクスです。ヒューリスティクスは、近道や目の子算といった意味です。

競馬の世界には、「同一厩舎の2頭出しは、人気がない馬を狙え」といった格言がありますが、これもヒューリスティクスの一つです。人気がある馬の方が強い馬なので、人気がない弱い馬を狙うのは不合理です。しかし、ヒューリスティクスは、完全なでたらめではなく、人間社会の中で時としてうまくいくから従うことがあるのです。

ヒューリスティクスを信じて行動した人が皆失敗しているのなら、ヒューリスティクスに従わなくなります。でも、うまくいくことがあるからヒューリスティクスにしたがって直感的な意思決定を行う場合があるのです。生活の知恵といったところでしょうか。

時間の感覚

今、10万円くれると言われたらありがたいですよね。

でも、10万円はあげるけど3年待って欲しいと言われたら、3年待つのだから利子も欲しいと思うでしょう。仮に今10万円をもらうのを諦める代わりとして、3年後に利子も含めて20万円もらえるなら納得できるとします。

この場合は、今の10万円の価値と3年後の20万円の価値は等しいと言えます。

では、5年後に10万円もらうのと、8年後に20万円もらうのなら、どちらを選ぶかを問われたとします。この場合、8年後の20万円を選ぶ人が多くなるそうです。しかし、よく考えてみれば、今10万円をもらうか3年後に20万円をもらうかの選択も、5年後に10万円をもらうか8年後に20万円をもらうかの選択も、もらう時期を3年後にすれば10万円の利子が上乗せされることに違いはありません。

したがって、今の10万円と3年後の20万円が等価なら、5年後の10万円と8年後の20万円も等価となります。だから、5年後に10万円をもらうのも8年後に20万円をもらうのも、どちらでも構わないはずです。それなのに8年後の20万円を選択するのは、人の時間の感覚には矛盾があると言えます。

いったいなぜ時間選好率は遅滞時間に伴って逓減するのだろうか。あるいは、なぜ現在の利得だけを特別に重視するのだろうか。これは不可逆性という時間論の本質にかかわってくるのではないだろうか。時間は戻らない。そのために我々の大事な選択はやり直しがききにくい。お金を払って時間が取り戻せるなら、多少のリスクをこうむっても勇敢にハイリターンを求めて、ものごとに挑戦するだろう。しかし、どんなに金持ちでも時間ばかりは買うことができない。老いと死を避けられる人間は1人もいない。(79ページ)

人の命には限りがあります。人が時に不合理な行動を取るのは、これが理由なのかもしれません。

今、10万円をもらったら、買いたかったものを買えますし、やってみたかったことができます。しかし、3年後はどうでしょうか。生きている保証はないし、今買いたいものがなくなっているかもしれません。それなら、今できるはずのことができなくなる分の損失を上乗せして欲しいと思うのではないでしょうか。

そうすると、5年後の10万円と8年後の20万円は見え方が異なってきそうです。今を起点にするか、5年後の遠い未来を起点にするかで、3年待つことの意味が変わってきます。今、10万円を払って手術を受ければ命が助かる状況で、3年後に20万円あげると言われても困ります。欲しいのは10万円でも20万円でもなく、命なのですから。

5年後の未来はわかりません。8年後の未来もわかりません。同じわからないのなら、利得が多い8年後の20万円を選びたくなりそうです。

それが不合理な選択だったとしても、人間なんだから仕方ありません。Aランチよりコスパが悪くても、「Bランチを食べずに死ねるか」という気持ちもわかります。