ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

歴史と深く関わる道

現代の日本の道路は、ほとんどがアスファルトで舗装され、自動車が走りやすくなっています。

人にとっても、アスファルトは、雨が降っても歩けるので助かりますね。

今では、道路が舗装されているのは当たり前ですが、かつての日本は、諸外国と比較して道路の舗装率が低い国でした。西洋諸国の舗装率が高いのはわかりますが、アジア諸国も日本と比較すると舗装率が高く、その点で、日本は後進国でした。

道路の舗装率が低いということは、移動が不便だったということでもあります。この移動の不便さが、数々の歴史上の事件と関わっていることは、あまり知られていないでしょう。

中国大返しは秀吉だからできた

作家の井沢元彦さんは、著書の「逆説の日本史 別巻5 英雄と歴史の道」の中で、歴史上の人物を「戦争」の道、「経済」の道、「政治」の道、「外交」の道、「文化」の道という視点から評しています。

天正10年(1582年)。本能寺の変で、織田信長が家臣の明智光秀に討たれました。その後、明智光秀は、羽柴秀吉と山崎で戦い敗れています。

本能寺の変が起こった頃、羽柴秀吉は中国地方で毛利と戦っていました。秀吉は、毛利との戦闘中に本能寺の変が起こったことを知り、急いで大坂と京都の境にある山崎へと向かったのですが、そのスピードは考えられないほど速いものでした。

中国地方の備中高松城から山崎までの距離は、約180kmです。その距離をわずか6日で駆けたのですから、1日に30kmを進んだ計算になります。兵士たちは、武器や甲冑を身に着けていたので、そうそう速く走ることはできません。おそらく、装備品は船で輸送したと考えられます。

しかし、身軽になっても、舗装されていない道を毎日30km、6日間も走るのは並大抵のことではありません。

それをやってのけた秀吉には、何か秘訣があったのでしょうか。

井沢さんは、秀吉が足軽上がりだったことを中国大返し成功の理由の一つと考えています。

当時の軍隊は、騎兵と歩兵(足軽)の混成でした。軍隊の移動速度は、馬よりも足が遅い歩兵の速度に制限されます。どんなに馬が速くても、歩兵の足が遅ければ、戦場に全軍を投入できません。だから、歩兵の速力を高めることが、軍隊の機動力を高めることにつながります。

足軽上がりだった秀吉は、それをよく知っており、日ごろから足軽を鍛えて健脚にしていたのだろうと。

もしも、柴田勝家滝川一益本能寺の変の時に中国地方にいても、明智光秀を討つために6日で山崎に戻ることはできなかったでしょう。なぜなら、彼らは常に馬に乗っていて、足軽の速力を高めることに関心を持っていなかったと考えられるからです。

それを証明するかのような合戦が、賤ケ岳の戦いです。

羽柴秀吉は、織田信長亡き後の織田家内で柴田勝家と対立しており、やがて賤ケ岳で一戦交えることになりました。当時、秀吉は、賤ケ岳から約52km離れた大垣城にいました。その大垣城から、秀吉の軍はわずか5時間で賤ケ岳まで移動しています。

甲冑で身を固めた兵士が時速10kmの速度で移動できるとは、柴田勝家は予想できませんでした。騎兵と歩兵の混成で、そんなに早く走れるとは、この時点でも考えられなかったのですから、柴田勝家中国大返しをできようはずがありません。

坂本龍馬の行動力は異常

江戸時代に入り、平和な世の中が訪れました。

でも、この時代にも、日本の道路の舗装率は極めて低いままでした。これは、江戸幕府が意図したものでした。

他国では、貴人は馬車に乗って移動しますが、江戸時代の日本には馬車がありませんでした。だから、貴人は駕籠に乗って移動していました。

馬車であれば、速く移動できます。そして、馬車を走らせるためには道路を舗装しなければなりません。しかし、江戸幕府は、速く移動できる社会をあえて否定しました。そんな便利になったら、戦国時代に逆戻りし、平和な世の中が崩壊してしまうと考えたのです。だから、できるだけ移動に手間がかかるよう、道路は舗装しない、関所を設けて移動を制限するといった政策がとられました。

そんな時代に坂本龍馬は、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩山口県)を結びつける薩長同盟を実現したのですから、並大抵の行動力ではありません。

江戸から薩摩まで、何百kmも歩いて西郷隆盛に会いに行き、そして、さらに歩き長州の桂小五郎にも話をつける。

現代なら、電話でもメールでも使って、「何月何日何時に会いに行くから時間空けといて」と連絡できますが、当時は、電話もメールもないので、事前にアポを取ることは不可能です。会いたいのであれば、相手宅にこちらから出向くしかありません。しかし、相手は、客が来るとは知りませんから、外出しているかもしれません。運が悪ければ、京や江戸に行っていることだってあります。

現代人が考えるほど、当時は、簡単に人に会えなかったのです。

そのような時代に犬猿の仲の薩摩藩長州藩の間に入って、同盟を締結しようと思ったら、いったいどれだけの距離を歩いて移動しなければならなかったでしょうか。そう考えると、坂本龍馬の行動力は異常と言えます。

坂本龍馬の功績をあまり評価しない人もいますが、当時、幕府にも、薩摩にも、長州にも、土佐にも、福井にも顔が利くのは貴重な人材だったはずです。現代のビジネスマンのように何百枚も名刺交換をしたと自慢しているのとは、わけが違います。

現代でも、コンパやゴルフで面子を集めるのには苦労します。電話もネットもあり、簡単に連絡が取れるのに。そう考えると、連絡手段が自分の足しかなかった時代に顔が広かった坂本龍馬は、稀代の斡旋のスペシャリストだったと言えるでしょう。


人々の日常生活と深い関わりを持つ道。

当たり前すぎて、あまり意識されないのもまた道。

そんな道の視点から、歴史の事件を振り返ってみると、これまでとは見え方が違ってきます。

なぜ、武田騎馬隊は最強だったのか。なぜ、西郷隆盛は歩いて東京を目指したのか。

歴史上の人物が歩いた道に思いを馳せるのもまた、歴史の楽しみ方の一つですね。