ウェブ1丁目図書館

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時代によって論調が異なる憲法改正論議

1992年頃、国連平和維持活動(PKO)で、自衛隊カンボジアに派遣すべきかどうかということが、国会で議論されました。当時は、メディアでも大きく採り上げられて、自衛隊の海外派兵は認めないという論調もあれば、国際的な平和活動に日本も参加すべきだという論調もありました。

自衛隊を海外に派兵するということは、日本国憲法の第9条に反するのではないかということが問題となったんですね。そのような社会情勢の中、作家の井上ひさしさんと比較憲法学の第一人者・樋口陽一さんが日本国憲法について対談した内容が、「現代」で連載され、その後、「『日本国憲法』」を読み直す」という書籍になって刊行されました。

この本を今、改めて読み直すと、その時代によって憲法改正論議についての世の中の考え方が随分と違うものだなと感じます。

戸締り論は果たしてトリックか?

憲法9条は、「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」を謳っています。この9条が、日本国憲法の特徴といえるわけですが、何かと改正すべきかどうかということが議論となります。

PKOの時も自衛隊派兵は9条に反するといった主張があり、海外派兵は認めないという人たちがいる一方で、平和維持活動のための自衛隊の海外派兵は、憲法9条に反しないといった主張をする人もいました。

中には、憲法9条を改正すべきだという意見もありましたね。

このような憲法9条の改正に対して、当時の井上さんと樋口さんは、反対の立場をとっていました。この点に関するお二人の対談の中で、特に興味深かったのが、「戸締り論」についての部分です。

戸締り論というのは、自分の家族が悪者に殴られても我慢する必要はなく反撃すべきだという考え方。これに対して、樋口さんは、このような言い方は一種のトリックだと述べています。

まさに言葉のアヤですが、この世に水や空気があるごとく論証を必要としないものとして国家には自衛権があるという前提から出発している。国家の自衛権を個人の正当防衛というまったく別の問題と同じにしてしまっているのです。(中略)こうした権利が個人にあるのだから、国家にも自衛権はあるはずだという論法なのですが、しかし、そこには個人という、それ以上は分解できない、憲法論にとっての思考単位と、国家という、人間が約束事でつくった人工的な集合体とを同一視している点で、すでに最初の出発点にトリックがあります。(91~92ページ)

個人と国家を同じという見方がそもそもおかしいということですね。国家というのは、目に見えない存在で、それは人と人が作った約束事なのだから、何の議論もなく自衛権が存在すると主張するのは、ちょっと違うわけです。

国家にも個人と同じく正当防衛を認めるべきかどうかという議論がなければならないということでしょう。

そうは言っても、やはり、他国から侵略された場合には、それを阻止するための自衛力は必要だと思います。だから、正当防衛と言える範囲での武力は持ってしかるべきなんじゃないのかと、僕は思うわけです。

しかし、同書を読み続けていると、そもそも他国が攻めてくるなんていうことは幻想だといった内容が対談の中で出てきます。ここが、時代によって憲法、特に9条を改正すべきだという論調が強くなったり、改正すべきでないといった論調が強くなったりする理由なんだろうなと感じました。

92年当時だと、確かにどこの国が日本に攻めてくるんだといった感じでした。バブル経済が弾けてまだ1年そこそこしか経っていない、正月三箇日がちょっと過ぎた後のようなほろ酔い加減が残っていた時代ですからね。

でも、今は違いますよね。

中国船が度々尖閣諸島にやってきて、隙があれば奪ってやろうという動きを見せています。中国の航空防空識別圏の問題だって、当時は、そんなこと全く想像しなかったわけです。だから、9条改正は不要だという論調の方が強かったんですね。

しかし、現在では、9条を改正しないと中国の無法を食い止めることができないという論調が強くなっています。国の正当防衛が当たり前のように与えられるとして議論しないのはどうかと思いますが、他国の侵略なんてありえないとして、自衛隊の存在を否定することはできない時代になっている事実を直視する必要はあるでしょう。

余談ですが、この本を読んでいると、南京大虐殺の内容が簡単に紹介されていました。この本が出版されたのは、1994年で、その当時は、「大量虐殺や強姦、掠奪などによる犠牲者は二十万人以上と推定されている」となっているのが、現在の中国の主張では30万人となっています。少しずつ犠牲者の数が水増しされていることがわかりますね。

言論の自由ヒットラー

この本の中では、ワイマール憲法ヒットラーの内容に関する部分も興味深かったです。

井上 ワイマール憲法では、どこにヒットラーという不思議な怪物が忍び込む隙があったのですか。
樋口 「言論の自由」をヒットラーナチスに与えたためだ、という議論があります。それを憲法の隙と見るか、それはデモクラシーのコストと見るかで正反対になります。
ドイツの場合、憲法に隙があったと見た人たちは第二次世界大戦後、新憲法をつくるときにその隙間を埋めようと考えます。(中略)ワイマール憲法言論の自由を制限しなかったために、ナチスというトロイの木馬憲法の体内に入ってくるのを許してしまい、城そのものをつぶされた。その愚を二度と繰り返さないように自由の敵には自由を与えない、憲法の敵には憲法上の保障を与えない。こうして誕生したのがドイツ連邦共和国基本法です。(84~85ページ)

これは、日本人にはない発想ですね。ドイツは、憲法の敵という理由で、ネオナチ共産主義者を徹底的に排除していったということですが、こんなことを現代日本で行うことは果たしてできるのでしょうか。

ただ、言論の自由を認めることでヒットラーのような恐るべき政治家が生まれる可能性もあるということなので、何らかの手当は必要なのかもしれません。


結局、1992年から現代まで日本国憲法は改正されずに来ています。井上さんと樋口さんの対談内容は、当時の平和ボケした日本社会を象徴するものだったように思いますが、今だから気付かされるものもあります。それは、その時々の社会の風潮で、憲法がコロコロ改正されることは、あってはならないのではないかということです。

現代のように中国の覇権主義、韓国との竹島問題、北朝鮮の拉致と核の問題など、日本を取り巻く環境が緊張していると、すぐにでも9条を改正すべきだという意見に流されがちです。でも、慌てて憲法を改正してしまうと、取り返しのつかないことになるかもしれませんので、やはり、慎重に議論すべきことだと思います。

とは言え、カンボジアへの自衛隊派兵の問題が採り上げられたときに、もっと憲法の在り方について議論しておけば、現在の近隣諸国との問題を解決する糸口が見えたかもしれませんね。


なお、同書では、従軍慰安婦の問題についても議論されています。こちらも、やはり、今と当時では見方が違う部分がありますね。