ウェブ1丁目図書館

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靖国神社の問題が難しいのは国民感情を操作した顕彰施設だからだ

明治維新以降、国家のために戦死した国民は、靖国神社に英霊として祀られました。

国家のために命を捧げた国民を追悼するための施設は、どの国にもあって当然だと考える人は多いですし、僕もそのように思っています。また、遺族の悲しみを考えると、国家が戦死者に対してなんらの配慮もしないのは、どうなのかとも思います。

だから、靖国神社は、戦死者の追悼に必要な施設だし、国家の重責を担う方々は、参拝すべきだという主張があるわけです。しかし。そもそも靖国神社は、戦死者の英霊を追悼するために創建されたのではありません。

その目的は、戦死者の顕彰なのです。

戦争による国家の発展

靖国神社の問題については、高橋哲也さんの著書「靖国問題」で、比較的わかりやすく解説されています。

靖国問題は、様々な感情がぶつかり合うので、それを理解するのは難しいのですが、創建の目的を知ると、割と理解しやすいと思います。また、感情がぶつかり合って、いつまでも靖国問題が解決しないのも、この創建の目的を知らずに論争が繰り広げられるからなのかもしれません。


近代国家は、日本だけでなく、ヨーロッパもアメリカも戦争によって発展してきました。現代のように経済活動によって国を富ますことよりも、武力の方が重視されていたんですね。

近代以降の日本の発展は、日清戦争日露戦争、第1次世界大戦によってもたらされました。その発展の裏では、他国の人々の多量の血が流されましたし、もちろん多くの日本国民の命も捧げられました。

戦争のたびに犠牲になる国民の数は増えていったのに、それでも日本は次々と戦争をしていきます。


現代人の感覚だと、多くの国民の命を引き替えにした国の発展は否定されるべきだとなるのですが、当時は、そのような感覚を持っている国民は、多くありませんでした。それは、戦争を否定する感覚を国民に抱かせないようにしたからです。そして、国民が戦争を否定しないようにするために創建されたのが、靖国神社だったんですね。

国民は国家教の信者

戦争で国家を発展させるためには、国家のために命を投げ出す国民の存在が必要となります。

そのためには、国民を国家の発展こそが喜びだとする国家教の信者にしてしまわなければなりません。国民を国家教の信者にしてしまう最も簡単な方法は、戦死者とその遺族に最大の栄誉を与えることです。

その栄誉は、国家が戦争で命を捧げた国民に対して、感謝の意を示すことで与えられます。近代日本では、国家と明治天皇は一体とされていたので、明治天皇靖国神社に参拝し頭を下げることで、戦死者とその遺族は、最大の栄誉を与えられます。

そして、その姿を見た他の国民は、自ら進んで次の戦争に命を捧げようという気持ちになるのです。

決定的に重要なのは、遺族が感涙にむせんで家族の戦死を喜ぶようになり、それに共感した一般国民は、戦争となれば天皇と国家のために死ぬことを自ら希望するようになるだろう、という点である。
遺族の不満をなだめ、家族を戦争に動員した国家に間違っても不満の矛先が向かわないようにしなければならないし、何よりも、戦死者が顕彰され、遺族がそれを喜ぶことによって、他の国民が自ら進んで国家のために命を捧げようと希望することになることが必要なのだ。(43~44ページ)

感情の錬金術

誰だって、自分の身内の死は辛いものです。

それが、国家が起こした戦争によるものであれば、恨みは為政者に向かいます。戦争で、多くの戦死者を出せば、それだけ多くの国民に国家は恨まれます。そうすると、戦争をすればするほど、国家、近代日本においては明治天皇に国民の恨みが向かうことになります。

先にも述べましたが、近代国家は戦争によって発展するものだったので、どんなに戦死者が多かろうが、次の戦争のために命を投げ出す国民の存在が必要となります。だから、国家は国民から恨まれてはならないのです。そして、国民が国家を恨まないようにするためには、国で最も偉い人が、例え階級の低い兵士であったとしても、彼らに感謝の意を表明し、顕彰する必要があるのです。


我が子を戦争で亡くした母親は、悲しみにくれます。しかし、天皇陛下靖国神社に参拝し、自分の子の英霊に感謝の意を表してくれているのを知ると、その悲しみは喜びに代わります。

これこそ、靖国信仰を成立させる「感情の錬金術にほかならない。(44ページ)

追悼目的の参拝でも顕彰されたように感じる巧妙な仕組み

さて、現在でも、多くの閣僚が靖国神社に参拝しています。

靖国参拝後、マスコミのインタビューに、「不戦の誓いをたてた」とか「国のために命を落とした方々を追悼した」と答えているのをテレビでよく見ます。僕は、参拝をした閣僚のそれらの言葉は、心の底からのものだろうと思っています。

でも、靖国参拝という行為が、国家の始めた戦争に国民が積極的に命を捧げる仕組みになっているのです。

国家のかじ取りを任されている方々が、靖国神社に参拝している姿を見せられると、自分がもしも戦死した時には、このように頭を下げてくれるんだという感情が、国民の潜在意識に植え付けられるのです。参拝した閣僚も、テレビでその姿を見ている国民も、全く気付かないうちに。

大日本帝国天皇の神社・靖国を特権化し、その祭祀によって軍人軍属の戦死者を「英霊」として顕彰し続けたのは、それによって遺族の不満をなだめ、その不満の矛先が決して国家へと向かうことのないようにすると同時に、何よりも軍人軍属の戦死者に最高の栄誉を付与することによって、「君国のために死すること」を願って彼らに続く兵士たちを調達するためであった。そしてその際、戦死者であれば一兵卒でも「おまいりして」くださる、「ほめて」くださるという「お天子様」の「ありがたさ」、「もったいなさ」が絶大な威力を発揮した。(46ページ)

靖国問題を難しくしているのは、多くの国民が、靖国神社を戦死者とその遺族の「追悼施設」だと勘違いしているからなのではないでしょうか?

その創建の目的が、国家が次から次と起こす戦争のための兵士を調達するための施設、すなわち戦死者の「顕彰施設」であったということを知れば、また違った議論になってくるでしょう。

そして、そういった創建の目的を理解したうえで、閣僚の靖国参拝のニュースを見ることが、二度と戦争を起こさないために重要なことなのです。

靖国問題 (ちくま新書)

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