世の中には、なんとも恐ろしい女性がいるものであります。
保険金目的で次々と男性を殺害する女性など、たまに恐ろしい事件が報道されることがあります。現代社会に何か問題があるのだろうかと考えるものの、まあ、そういう女性もいるのだろうと結論を出して終わり。
現代の女性が凶悪になっているのかどうかは知りませんが、歴史上には、たびたび凶悪な女性が登場するものです。特に中国は歴史が長く、人口も多いことから、たまに恐ろしい女性が出てきます。
権力争いに勝つために政敵を葬った呂后
作家の永井路子さんの著書「歴史をさわがせた女たち 外国篇」では、中国の恐ろしい女性が3人描かれています。
劉邦は、若いときは苦労をしたものの、天下を取ると次々と女性に手を出すようになります。そして、戚夫人との間に如意という子が生まれました。
劉邦には、すでに呂后との間に孝恵という皇太子がいましたが、戚夫人は我が子の如意を皇太子にしようと画策します。これに怒った呂后は、やがて、劉邦が亡くなると如意を殺してしまいます。
さらに劉邦の浮気を許せなかった呂后は、戚夫人の手足を切り落とし、目をえぐり、声が出なくなる薬を飲ませて、トイレに転がしました。この頃、中国では豚をトイレの下で飼っていたことから、呂后は、我が子孝恵に「トイレに人豚がいるよ」と言って見せました。
これにショックを受けた孝恵は病気になり、酒浸りの日々が続いて23歳の若さで亡くなりました。
呂后の浮気相手への復讐心の恐ろしさ。絶対に狙われたくないですね。
出世のためなら我が子も殺す則天武后
唐の時代。
太宗の后であった則天武后は、太宗が亡くなると尼になりました。ところが、太宗の後を継いだ息子の高宗が、則天武后に惚れてしまい、後宮に迎え入れます。
彼女が権力欲に目覚めるのはここからでした。
則天武后は、高宗との間に女の子と男の子を授かります。高宗には他に皇后がいましたが、皇后との間に子はいませんでした。それなら、我が子を皇太子につけようと、則天武后は皇后に罠を仕掛けます。
ある日、則天武后の女の子が皇后と遊んだ後、急死する事件が起こりました。当然、真っ先に疑われたのは皇后でした。皇后は、身に覚えがないと犯行を否定しましたが、最終的に皇后を辞めさせられました。
代わって皇后となったのは、則天武后でした。そう、彼女は、皇后となるために我が娘を手に掛けたのです。そして、ライバルたちを次々に幽閉し、手足を切って酒樽に放り込んでいきました。
則天武后は、さらに出世し天后と名乗るようになっていました。そして、夫の高宗が亡くなると、中国初の女帝として君臨するようになります。しかし、彼女も年を取り、病気になると、息子たちが造反し、退位させられてしまいました。
その半年後、則天武后は息を引き取りました。我が娘を手にかけた代償が晩年にやってきたということでしょうか。
贅沢のために政敵を排除した西太后
西太后は文宗との間に男の子を授かり、文宗の死後にその子が帝位につきました。
文宗には、東太后という正室がいました。彼は亡くなる前に西太后に専横なふるまいがあった場合には処分するようにとの遺書を東太后に残していました。ところが、ある時、東太后が病気になった際、西太后が自分の腕の肉を切って薬の中に入れて捧げたことで、東太后はその遺書を破り捨ててしまいました。腕の肉を薬に混ぜると効き目が増すとの言い伝えがあり、西太后のその行為に感動したからです。
しかし、これが仇となります。
西太后は、政治を独占し、やがて東太后を毒殺したと言われています。
それからはやりたい放題、贅沢三昧。早死にした我が子の皇后が気に入らないからと言って、殉死の名目で食事を与えず餓死させたり、その後に帝位についた徳宗から権力を取り上げ、その妻を殺したり。
しかし、西太后が、自分の気に入らない者たちを処分している間にアロー号事件やアヘン戦争によって清朝は弱体化していきました。外国人を排斥するために義和団と手を結んだものの、清朝はどうにもならないところまで追い込まれていました。死の直前には、徳宗も毒殺したと伝えられています。
権力を握るために政敵を次々に抹殺していった呂后、則天武后、西太后は、なんと恐ろしい女性でしょうか。
ところで、彼女たちの行為は、どこまでが事実なのか、疑問に思うところもあります。手足を切る行為が何度も登場するのは、彼女たちが恐ろしい女性だったことを強調するための作り話じゃないのかとも思えますが。
いずれにしろ、恐ろしい話ですな。
- 作者:永井 路子
- 発売日: 2003/06/10
- メディア: 文庫