歴史に登場するのは男性ばかりですが、女性が当時の社会に影響を与えていなかったわけではありません。
政治の世界では、持統天皇や北条政子がいましたし、文学の世界では紫式部や清少納言が有名です。
ただ、女性については、男性よりも史料が少ないため、後世に様々な伝説が作られたり、勝手な解釈がされたりすることがあり、その人物像がよくわからないことがあります。日野富子は金の亡者のように言われていますし、和泉式部は悲恋の女性だと言われていますが、実際のところはどうだったのでしょうか。
3人の子供を助けるために出頭した常盤御前
作家の永井路子さんは、著書の「歴史をさわがせた女たち 日本篇」で、日本史に登場する多数の女性の人物像がどうだったのかを紹介しています。
永井さんによれば、同じ女性でも、時代によって、悪女になったり善人になったりと解釈が変わることがあり、現代定説となっている人物像は、その多くが江戸時代的なものさしのあて方をしたものだとのことです。
例えば、常盤御前。
彼女は平安時代末期の女性で、源義朝の妻でした。その容姿はとても美しく、当時の美人コンテストで優勝するほどだったと伝えられています。
常盤御前は、源義朝との間に3人の子供をもうけ幸せに暮らしていましたが、平治の乱で源義朝が平清盛に敗れると追われる身となりました。雪の中を幼い3人の子供とともに逃げていたものの、母が平清盛に捕らえられたことを知ると、母を助けるために出頭します。そして、自分はどうなっても構わないから、幼い3人の子供の命は助けてほしいと懇願しました。
平清盛は、この常盤御前の態度に心を打たれ、3人の子供と彼女を助けることにしたというのが定説です。
でも、永井さんは、この話はおかしいと述べています。
常盤御前が出頭する前、源義朝の嫡男であった頼朝が、平清盛に捕らえられていました。清盛は、彼の母の説得もあったことから、頼朝の命を助け伊豆に島流しとしました。嫡男の命を助けたのに他の3人の子供を処刑する理由はありません。3人の子供が助かったことと常盤御前の出頭は、どうやら因果関係がなさそうです。
頼朝の前で義経を慕った舞を演じた静御前
常盤御前の子の源義経は、大人となって父義朝の仇である平家を滅ぼしました。
白拍子は、歌って踊れるアイドル歌手のようなもので、その起こりは神に踊りを捧げる巫女のようなものだと伝えられています。当時、白拍子たちが大人気となったのは、男装をして舞を披露していたから。現代で例えると、風男塾のようなものでしょうか。
平家を倒してスーパースターとなった源義経でしたが、兄の頼朝に追われる身となり、静御前や家臣たちは家を捨て船出しました。しかし、船は嵐にあって沈没。義経たちは吉野の山をさまよい、そして、静御前と別れることになりました。
源頼朝に捕らえられた静御前は、取り調べの際、黙秘を貫き通します。
そんな中、源頼朝は信仰していた鶴岡八幡宮に舞を奉納させようと、静御前を舞台に上げます。
その時、静御前は、夫の義経を慕った歌を舞いながら歌ったため、頼朝の怒りを買いました。その場は、頼朝の妻の北条政子がなだめたので事なきを得たとされています。
静御前は、義経が恋しすぎて恋の歌を披露したというのが定説です。でも、永井さんは、静御前は堂々と政治批判をした女性ではないかと述べています。どんなに政治に不満があっても、首相主催のパーティーに呼ばれれば、目の前で批判することなどできません。静御前は、それをやってのけた勇敢な女性なのだと。
歌舞伎の祖・出雲お国
芸能人と言えば、江戸時代初期の出雲お国も大したものです。
彼女は、歌舞伎を考案し、大スターとなった女性です。
彼女は、もともとは出雲大社の巫女で、大社が寄付を募るためにお国たちを都へ上らせました。その際、彼女たちは、神楽舞を舞ったりして寄付を集めましたが、お国は、他の人よりもはるかに多くの寄付を集めました。
ここで、お国は、華やかな都で神楽舞など古臭いことをやってられるかと思い独立。巫女たちをスカウトして女優だけの一座を結成しました。
これまでの演劇は、男役も女役も男性が演じるものでしたが、お国は、その逆に男役も女役もすべて女優だけで演じることにし、一座は大ヒットしました。現代の宝塚歌劇のようなものですね。
お国は、企画も演技も自分でこなし、当時の客たちを魅了していきます。呼ばれればどこへでも行き、次々に新作を披露し続けました。
そんな時、彼女のブレーンになったのが、名古屋山三郎でした。彼は、蒲生氏郷に仕えていましたが、氏郷が死ぬと遺産をもらい都で気ままな暮らしを始めます。二人の出会いはどうだったのか知りませんが、山三郎が巨額の資金をお国に援助し、お国が考案した歌舞伎は充実していきました。
しかも、名古屋山三郎がバックについていることが噂となり、お国かぶきの人気はさらに上がっていきます。
しかし、ある時、山三郎が殺害され、一座は窮地に立たされます。これで、お国は終わりだろうとささやかれる中、彼女は山三郎の死を題材にした狂言を上演したのです。
二人は恋仲だったとされていたため、この狂言は都じゅうの話題となりました。
恋人に死なれて悲しいはずなのにと考えがちですが、永井さんは、お国のデッチ上げではないかと述べています。
二人を結びつけた最も古い史料では、「山三郎がお国に刀をさして早歌で舞うことを教えた」と、ブレーンとしての活躍を伝えているだけです。山三郎がお国の夫とするのは、もっと時代が下がってからのようです。
そうすると、山三郎の死後すぐに上演した狂言は、彼が死んだことをいいことにお国が恋人に成りすまし、一儲けをたくらんだものだったのだろうと。お国は、日本始まって以来の最高の役者だったのかもしれません。
歴史と言えば、政治中心で、しかも、男性の視点で書かれた史料ばかりが残っています。
現代社会で生きている人々にとっては、政治が最も重要ということはなく、おいしいものを食べたり、おもしろいテレビを見たり、音楽を聴いたりすることの方が生活の中心となっています。
昔もそうだったのではないでしょうか。
男性の視点から見た政治だけでは、当時の人々の暮らしはよくわかりませんね。