いつの世も大富豪はいるもの。
一生懸命働いてお金持ちになった人、宝くじを当ててお金持ちになった人、不動産や株式などの投資でお金持ちになった人。
大富豪になった理由は様々ですが、うらやましく思いますね。歴史上も、豊臣秀吉のような権力者が、巨万の富を手に入れています。なんだかんだ言っても、権力を持つことが大富豪への近道なのでしょう。
院政期の女大富豪
作家の永井路子さんの著書「新・歴史をさわがせた女なち」にも、大富豪の話が出てきます。
平安時代後期の院政期。上西門院統子と八条院暲子は、全国にたくさんの土地を有し、巨万の富を得ていました。彼女たちは、なぜ全国に土地を持っていたのでしょうか。
統子は、鳥羽天皇と待賢門院璋子の間に生まれた娘です。そして、暲子は、鳥羽天皇と美福門院得子の間に生まれた娘です。どちらも鳥羽天皇の娘ですが、母親が違っています。
待賢門院も美福門院も、女院号を持った天皇の后です。この女院号を持っているかどうかで待遇に大きな差が出ます。女院号を持つということは、天皇の母親になっているということなので、大きな権力も有しています。
この時代、全国では所領争いが起こっており、土地の所有者は、我が土地を守るためにあえて女院に土地を寄進していました。女院は、絶大な力を持っていたので、女院の領地にしておけば土地を奪われないと考えたのです。
さらに女院は、知行国主でもあり、国の守を推薦する権利を持っていました。
知行国主から推薦された国の守は、現代の知事と税務署長を兼任しているようなものです。国の守は、推薦してもらったお礼を知行国主に支払いますが、定額以上の税金を徴収できれば自分の懐に入れても構わなかったので、腕次第で富を増やすことができました。
待賢門院も美福門院も、知行国主として国の守を推薦し、そのお礼を受けて大富豪になったのです。
母親から相続した以上の土地を持つ
待賢門院の娘の統子も、美福門院の娘の暲子も、ともに天皇の后となり産んだ子が天皇となったので女院号を手に入れました。
母親同様に女院としての絶大な権力を手にした2人は、それぞれの母親から相続した土地もあり、母親以上の大富豪になっていきます。暲子は、中年の頃に全国に100余りの荘園を持ち、晩年には230ヶ所にまで荘園が増えていたと言います。きっと、統子も暲子と同じくらいの荘園を持っていたことでしょう。
暲子がこれほどまでに多くの土地を手にすることができたのは、彼女に仕える女房の存在が大きかったようです。現代の大企業に娘を就職させるために社長の懐に大金をねじ込むのと同じように女房となるために女院に土地を寄進していたのです。
これは、宮中に自分の親類を入れることができれば、出世しやすくなると考えた行為で、平清盛も妻の時子の妹の滋子を上西門院統子の女房にしています。そして、この滋子が後白河法皇の目にとまり、法皇の子を産んで建春門院という女院号を手に入れたのです。
さらに滋子が産んだ子は高倉天皇となり、平清盛の娘の徳子がその妃となりました。しかも、徳子は安徳天皇を産み建礼門院となり、平家は大きな権力を持つことができたのです。
小督局と鹿ヶ谷の変
高倉天皇は、小督局に恋をしました。そして、小督局は、やがて妊娠します。
この妊娠と時を同じくして、平家を転覆させようとする鹿ヶ谷の変が起こりました。この鹿ヶ谷の変と小督局の妊娠は偶然時期が重なったのでしょうか。
永井さんは、そうではないと述べています。
小督局が、男の子を産めば、いずれその子は天皇となります。そうすると小督局は女院号を得て絶大な権力を手にします。平家がのし上がれたのは、一族の女性が女院となったからです。もしも小督局が男の子を産めば、平家の権力が失われるかもしれません。
それを感じ取ったのが反平家の貴族たちでした。彼らは、次の女院は小督局に間違いないと先走ったのです。しかし、その動きをすぐに察知した平清盛は、首謀者たちを処罰しました。そして、小督局が産んだのは女の子だったので、平家政権はこの時には倒れませんでした。
この後、平家と源氏が覇権を争うことになりますが、上西門院統子と八条院暲子は、せっせと利殖に励み母親から譲り受けた土地の数倍の土地を手にすることに成功しました。
命をかけて戦う男性たちよりも、彼女たちの方が賢かったのではないでしょうか。
- 作者:永井 路子
- 発売日: 1989/11/10
- メディア: 文庫