ウェブ1丁目図書館

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京都に残る平家物語の謎

平安時代末期の源平合戦が行われていた時代については、平家物語などで様々に語り継がれています。

大筋で事実が語られているのでしょうが、中には、弁慶の立ち往生のように本当にそんなことがあったのかと疑問に思う伝説もたくさんあります。そのような伝説は、非科学的だと一蹴するのは簡単ですが、その伝説が生まれた背景に何があるのかを考えてみるのも楽しいものです。

平清盛白河上皇落胤か?

立命館大学教授の奈良本辰也さんと作家の高野澄さんの共著『京都の謎』には、京都の歴史に残る謎が18章に渡って紹介されており、源平合戦の時代についてもいくつか収録されています。

源平合戦の謎と言えば、まず、平清盛が誰の子なのかがすぐに頭に浮かびます。

清盛の父は、忠盛です。しかし、忠盛は実の父親ではないと伝えられています。では、実の父親は誰だったかというと、白河上皇だと伝えられています。

ある夜、白河上皇は、忠盛を共に連れて祇園の女性のもとに通おうとしていました。その途中、怪しい光を発しているものがあり、鬼に違いないと思った上皇が忠盛に命じて討ち果たさせようとします。しかし、忠盛が、その光に近づくと、御堂の法師が灯籠に灯りをつけようとしているところでした。

上皇は、無益な殺生をしなかった忠盛の沈着冷静な判断に褒美として、祇園の女性を下賜します。その女性は、すでに上皇の子を妊娠しており、女子なら上皇が引き取り、男子なら忠盛が我が子として育てることになりました。そして、生まれてきた子が男子だったので、忠盛が育てることになります。その時の子が清盛だったのです。

清盛は、子供の頃からとんとん拍子に出世していきました。清盛の異常な出世は、白河上皇落胤だからでもありますが、平家物語では、彼が慈慧僧正の生まれ変わりとの説も伝えており、清盛を類まれな存在であることを強調しています。

本当に清盛は、白河上皇落胤だったのか謎ですが、後に後白河法皇は、この説を巧みに利用し清盛を懐柔したようです。武士である平氏が武士の立場を保ったまま力を持つと、やがて後白河法皇にとって厄介な存在になりかねません。そこで、後白河法皇が、平氏との融和路線のために清盛が白河上皇落胤だとの説を利用したと。

本当に清盛は、白河上皇落胤だったのでしょうか。

木曽義仲滅亡の謎

後白河法皇の第二皇子の以仁王が、平氏追討の令旨を諸国の源氏に下し、源頼朝木曽義仲が挙兵しました。

先に上洛し、平氏を都から追い落としたのは木曽義仲だったのですが、京都には、彼の功績をたたえる史跡はないに等しいです。頼朝の弟の義経の伝説は、鞍馬山にたくさん残っているんですけどね。

木曽から出てきた義仲は、連戦連勝で都に入り、後白河法皇から褒美をもらおうとしました。そこを法皇に見すかされてしまいます。法皇は、義仲に恩賞を与えましたが、それ以上に頼朝に多くの恩賞を与えたのです。

これには、さすがに義仲も黙ってはいられません。平氏を都から一掃したのは義仲なのになぜ頼朝よりも恩賞が少ないのかと怒りをあらわにします。しかし、これこそが法皇の策略。義仲と頼朝が手を取り合えば源氏の力が強大になります。せっかく平氏を都から追い出しても、これでは意味がありません。だから、法皇は、自らの権力を維持するために頼朝に多くの恩賞を与え、義仲と頼朝の仲を悪くしようとしたのです。

次第に義仲は悪人に仕立て上げられていきます。京都にとっての悪とは、「後白河法皇を中心に渦まく権謀術数に入り込む知識と手腕とを持ち合わせなかったこと」です。純粋な義仲は、法皇の言葉に何度も騙されていましたが、やがて怒りが爆発します。

法皇法住寺殿を焼き討ちし、49人の貴族を宮廷から追い出したのです。平清盛でさえ43人の貴族しか追い出さなかったのだから、義仲は平氏を上回る悪人だとなり、彼の滅亡がこの時に決定づけられました。

その後、義仲は義経に討ち取られ、わずか60日の天下で終わりました。

義仲は、都が気に入らなければ木曽に帰ることができたはずです。なぜ、義仲は、都にとどまっていたのでしょうか。

大原御幸の謎

平家物語の終巻は「灌頂の巻」です。

灌頂の巻では、後白河法皇建礼門院を大原の寂光院に訪ねます。この話は、おそらくフィクションです。

建礼門院は、平清盛の娘で高倉天皇との間に安徳天皇をもうけました。しかし、壇ノ浦の戦い平氏は滅亡し、安徳天皇もこの時に崩御しています。生き残った建礼門院は、東山の長楽寺で髪を下ろし、その後、寂光院に隠棲していました。

その寂光院に何のために後白河法皇がやって来たのか。建礼門院にすれば、こんなことになったのは、全部あんたのせいだろうと文句の一つも言いたくなります。

平家物語は、天台座主慈円信濃前司行長に書かせ、琵琶法師たちに語らせたものです。鎌倉時代になると仏教が民衆の間に広まっていきました。それは、比叡山を下りた法然親鸞日蓮などの天才的な思想家が中心となった布教です。

このままでは、比叡山が衰退してしまうと考えた慈円が、比叡山の宗教を民衆に広めるために平家物語を作ったのだと。

建礼門院の半生は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道を見てきたようなもの。そして、彼女の半生を演出したのは、後白河法皇です。建礼門院が経験した六道には多くの人々が登場しましたが、灌頂の巻で後白河法皇が大原寂光院に彼女を訪ねるだけで、そのすべてが走馬灯のように思い出されます。

慈円比叡山の教えを民衆に伝えるためには、この灌頂の巻がどうしても必要だったのでしょう。


平安時代末期の源平合戦には、まだ多くの謎が残っています。その謎を作ってきたのは平家物語のように思えます。仏教を民衆に広めるという視点で平家物語の話を読むと、その時代の京都の謎が解けるかもしれませんね。