京都の鴨川に架かる橋はいくつかありますが、その中で有名なのは、牛若丸と弁慶が出会った場所と伝わる五条大橋、東海道五十三次の終着点である三条大橋でしょう。
どちらも、古くから鴨川に存在しているように思われがちですが、三条大橋を架けたのは豊臣秀吉なので、その歴史は意外と浅いです。ところで、豊臣秀吉はなぜ三条大橋を鴨川に架けたのでしょうか。
三条大橋がなくても生活に困らなかった
三条大橋は、豊臣秀吉の五奉行の一人である増田長盛が、天正18年(1590年)に架橋したものです。擬宝珠の銘文から、今後の人々の往来を助けることを目的に架橋したことになっています。
しかし、それは表向きの理由で、豊臣秀吉は別の目的で三条大橋を架けたのだと、作家の高野澄さんは、著書の『京都の謎 戦国編』で述べています。
この頃の豊臣秀吉は、関白太政大臣になり、聚楽第を造営し、刀狩りと検地も行って、事実上、天下人となっていました。しかし、まだ関東と東北は支配に治めていませんでした。そこで、豊臣秀吉は、三条大橋架橋の前年11月に小田原の北条氏直征伐を宣言します。
そう、三条大橋は、豊臣秀吉が小田原に出陣するために架けさせたものだったのです。それまで、三条河原に橋が架かっていなくても人々の生活は何も困っていませんでした。三条大橋は、豊臣秀吉の小田原征伐の出陣、そして、彼が見事戦果を挙げて凱旋することを世の人々に見せることを目的に架けられたのです。
当時は、橋がなくても問題なかった三条河原ですが、ここに橋が架かったことで飛躍的に周辺が発達します。三条大橋を渡って西に進んでいった三条町では、何でも手に入ったとのこと。
徳川家康の伏見城破壊の目的
豊臣秀吉が天下人になって京都は大改造されました。京都は古い歴史を持っていますが、現在の京都市内の街並みは、豊臣秀吉によって造られたものです。
豊臣秀吉は、京都の中心部を改造しただけでなく、南西の伏見も大きく変えました。
巨椋池、宇治川、桂川を上手に利用して築いた伏見城は難攻不落と言っても良いほどの山城。その南には、東南アジアまで征服するための艦隊を停泊させる伏見港もありました。
しかし、伏見城を築城した翌年、豊臣秀吉は亡くなり、徳川家康が伏見城を手にすることになります。
難攻不落の伏見城を手に入れた徳川家康でしたが、実は、彼にとって伏見城は邪魔でしかありませんでした。伏見にある巨大な城が敵の手に落ちたら、攻略するのに手間がかかります。後々、幕府を開くことまで考えたら、京都に近い伏見城は今のうちにつぶしておいた方が無難です。
そこで、徳川家康は、家臣の鳥居元忠に伏見城の留守を任せます。なぜ、鳥居元忠を伏見城に置いたのか。それは、関ケ原の戦いの前に西軍が伏見城を攻撃してくるのを防がせるためです。しかし、伏見城に残した鳥居元忠の兵力は、西軍の足元にも及ばないほど少なく、攻められれば落城必至でした。
ところが、徳川家康の狙いは、ここにありました。豊臣秀吉の遺言で受け取った伏見城を自らの手で破壊することはできません。自分以外の者に伏見城を破壊させるとしたら、敵の攻撃を受けるのが好都合。鳥居元忠は、徳川家康の天下取りのために犠牲になることを決意し、城を枕に自刃しました。その時、床には鳥居元忠以下家臣たちの血がべったりとつきました。その床は、後に京都の多くの寺院の天井に使われ、今も血天井と呼ばれ現存しています。
鳥居元忠は、伏見城で西軍と戦っている間、徳川家康に三度も状況を報告しています。その報告は、高野さんによると、徳川家康との取引だったとのこと。関ケ原の戦いで勝利した後、鳥居家の加増を交渉するための報告だったのだと。
関ケ原の戦いの後、鳥居元忠の交渉の甲斐あって、鳥居家は4万石から10万石に加増されました。さらに大坂の陣の後、20万石になっています。徳川家康の家臣の中で、これほどの加増があったのは珍しく、やはり、鳥居元忠が伏見城で戦死したことが大きかったのかもしれません。徳川家康の悩みの種であった伏見城もなくなったのですから、鳥居家に16万石も加増したのは当然の報いだったのでしょう。
伏見城はなくなりましたが、現在の伏見は、豊臣秀吉の時代の面影を残しています。江戸時代には、伏見港の水運が発達し、近くには酒蔵も建ち、今なお多くの旅行者が往時の景色を求め伏見にやって来ています。