ウェブ1丁目図書館

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会津藩が京都守護職にならなかったら同志社大学は京都に開校していなかった?

京都御苑の北に同志社大学今出川キャンパスがあります。

かつて、この地は薩摩藩の藩邸があった場所でしたが、数奇な運命を経て同志社大学の前身である同志社英学校を開いた新島襄の所有となりました。

新島襄が、今出川キャンパスの地を手にする遠因となったのは、幕末に会津藩京都守護職となり上洛したことにあります。もしも、会津藩京都守護職にならなければ、同志社大学は別の場所に設立されていたかもしれませんし、場合によっては設立されなかったかもしれません。

薩摩藩会津藩の同盟

作家の高野澄さんの著書『京都の謎 東京遷都その後』では、明治になり、首都が東京に遷った後の京都が、どのようにして発展していったのかが解説されています。古びていくだけだった京都を様々な人たちが近代化を進め、現在の姿へと進歩させていった過程を知ることができます。

その京都の近代化に尽力した一人が元会津藩士の山本覚馬でした。

山本覚馬は、会津藩京都守護職となった際、上洛しました。彼は、江戸で佐久間象山江川太郎左衛門に様式砲術を学び、また、勝海舟を通じて肥後熊本の横井小楠の政論を知るなど、当時の日本人としては、西洋文明に明るい人物でした。そして、洋学者でもあった山本覚馬は、京都で洋学所を開き、各藩の藩士たちが聴講に来るほど賑わっていました。

一方で、風雲急を告げる京都では、長州藩が御所を攻撃する事件が起こり、会津藩薩摩藩と同盟し御所を守ることに成功します。しかし、この時に負傷した山本覚馬は、後に失明することになります。

密出国した新島襄

山本覚馬長州藩を御所から退けたころ、安中藩士であった新島襄は、函館から密出国してアメリカに渡りました。

彼が密出国したのは、西洋文明の強大さを知ったからです。当時の日本では、外国人を国内から追放しようとする尊皇攘夷運動が盛んでしたが、薩英戦争でイギリスの軍事力を思い知らされたことで、今の状況で西洋文明と戦うことは不可能だと気づく人々が出てきました。その中の一人が新島襄です。

欧米の富強の源は何か、それを知り日本の政治に活かすため、新島襄アメリカに渡ることを決意したのです。

そして、高等学院、大学、神学校で学んだ新島襄は、キリスト教の大学を日本で設立するため、多額の資金の提供を受け帰国しました。

薩摩藩の捕虜になった山本覚馬

新島襄アメリカの学校に通っている間、日本では、長州藩薩摩藩が秘密同盟を締結し倒幕に向かって動いていました。

やがて、徳川慶喜大政奉還を決定し、江戸幕府は終わりを迎えますが、その後、鳥羽伏見の戦いが起こり、新政府軍と旧幕府軍の間で戦争がはじまります。その時、京都にいた山本覚馬は、薩摩藩に捕らえられ、薩摩藩邸に軟禁されてしまいます。

失明した山本覚馬は、牢内で同じく捕虜となった会津藩士にこれからの日本が西洋諸国と対等の関係を維持するにはどうすれば良いかを語り筆記させます。それは、『管見』という政治意見書となり、岩倉具視西郷隆盛の目にとまり、山本覚馬は、明治2年に釈放されました。

山本覚馬新島襄の出会い

この頃、京都の知事は長谷信篤でしたが、実権を握っていたのは、元長州藩士の槇村正直でした。彼は、山本覚馬の存在を知り、明治3年に京都府の顧問のような身分として雇うことにします。

かつて京都守護職があった場所は京都府庁となり、山本覚馬は、京都の近代化のために努めます。そんな時、帰国していた新島襄は、木戸孝允の紹介で槇村正直と出会います。

新島襄は、大坂か神戸にキリスト教の大学を設立しようと考えていましたが、キリスト教を伝導する大学は容易に認可されません。そこで、彼は、京都に行くことを決意し、何度も槇村正直と対談し、やがて、山本覚馬を紹介されました。

新島襄は、山本覚馬キリスト教の大学を設立したいけども難航していることを話します。すると、山本覚馬は、京都に手ごろな土地を持っているから、そこに大学を設立してはどうかと提案します。その土地こそが、山本覚馬が軟禁されていた薩摩藩邸の跡地だったのです。

山本覚馬は、薩摩藩が京都から引きあげた後、売りに出されていた敷地をすぐに買い取っていたのです。その土地が、新島襄に譲られ、今日の同志社大学今出川キャンパスとなりました。

後に山本覚馬の妹の八重子と結婚することになる新島襄は、槇村正直との交渉の末、聖書の講義は個人の住まいで行うこととなったものの、同志社英学校を開くことができました。

その後、明治45年に同志社英学校は同志社大学となりましたが、その時、新島襄はこの世にいませんでした。


今でも、同志社大学今出川キャンパスの入り口には、薩摩藩邸があったことを示す石碑が立っています。歴史的には、薩長同盟が締結された場所に近く、興味深い地です。

山本覚馬にとっては、政敵だった薩摩藩の拠点であり、捕虜として軟禁された場所だったのですが、その地を手に入れたことが、やがて、義弟である新島襄同志社英学校の開校につながっていくのですから運命とは不思議なものです。

それ以前に会津藩京都守護職に任命されなければ、京都御苑の北に同志社大学が設立されることはなかったでしょう。