現代の二刀流と言えば、プロ野球の大谷翔平選手ですが、元祖二刀流と言えば、剣豪の宮本武蔵です。左右の手に刀を持って試合をすることから、広く二刀流と言われるようになりました。
その元祖二刀流の宮本武蔵のイメージを作り出したのは、作家の吉川英治さんと言っても過言ではないでしょう。小説『宮本武蔵』に登場する宮本武蔵が、強い自制心を持って剣の道を究めようとする姿こそ、多くの人が想像する真の宮本武蔵だと。もちろん、小説の中の宮本武蔵なので、本当の宮本武蔵は違っていてもおかしくありません。
しかし、それはわかっていても、実際の宮本武蔵が、吉川さんが描いた宮本武蔵以外の素顔を持っているとは想像できません。それだけ、吉川さんが描いた宮本武蔵が、魅力的な人物に映ってしまうのでしょう。
吉岡一門との決闘を描くまで
吉川さんの著書『随筆 宮本武蔵』は、小説『宮本武蔵』を書くための素材のウラが紹介されています。『随筆 宮本武蔵は』は、『随筆 私本太平記』に収録されています。
宮本武蔵関係の史料は、長編小説を書くには乏しく、連載するのに難儀しただろうなと想像できます。特に一乗寺下り松での吉岡一門との決闘を描くのには、大変苦労したようです。
宮本武蔵が吉岡一門と決闘したのは3回。1回目は、洛北蓮台野で吉岡清十郎と試合したのはわかっていますが、2回目に弟の伝七郎と試合した場所は不明です。そして、3回目の決闘は、吉岡一門百数十名を相手に一人で戦っています。血糖の地は一乗寺下り松。
吉岡さんは、3回目の決闘を描くため、実際に一乗寺下り松まで行くのですが、タクシーの運転手も迷うような場所でした。現在、一乗寺下り松には、「宮本吉岡決闘ノ地」と刻まれた石碑が置かれ、そこには松の木も植えられています。叡山電車の一乗寺駅から東に10分ほど歩いた場所です。吉岡さんが、一乗寺下り松を訪れた時には、すでに当該石碑はあったのですが、見つけるのには苦労したようです。
武蔵が参拝した八幡宮はどこか
宮本武蔵が吉岡一門100名以上と3回目の決闘をしていますが、これは、もはや戦争のような戦いです。吉川さんは、作中で、現実味を持たすため、試合の型に書いてしまいたくないとの信念を持っていました。それが、地形を調べるために現地に足を運ぶ動機となったようです。
決闘の朝、宮本武蔵は、八幡宮の社前で足を止めたことが史実としてどの書にも伝えられています。この場面を描こうと思っていた吉川さんは、一条寺下り松に近い八幡宮を探します。地元の人に話を伺うと、一乗寺下り松の近くには八幡社はないと言います。街中にある二条の御所八幡か堀川の若宮八幡ではないかとの意見も出ました。
地理的に御所八幡や若宮八幡は、一乗寺下り松からかなり遠いので、ちょっと考えにくいです。また、一乗寺下り松の北の方角に三宅八幡宮があり、ここだと決闘の前に立ち寄ることはできそうですが、洛中から一乗寺下り松よりも遠い三宅八幡宮から宮本武蔵がやって来たのかと疑問に思います。
最終的に小説『宮本武蔵』では、武蔵は、八大神社に参拝した後、一乗寺下り松に向かったと描かれました。
八大神社は、一乗寺下り松から東に坂を数分上ったところにありますが、八幡神は祀られていません。史実では、八幡宮となっていますが、八大神社の間違いではないかと考えた吉川さんは、八大神社に参拝した後に吉岡一門との決闘に向かう設定にしました。
八大神社の境内からは、一乗寺下り松に陣取る吉岡一門の動きがよく見えたはず。もちろん、フィクションなのですが、現地に足を運んだことで、決闘をどう描くかの構想が思い浮かんだようです。
小説『宮本武蔵』は、戦時中に連載された作品です。本作に限らず、一昔前の小説は、情景の描写に力が入っていたように思います。最近の物語は、登場人物の心情の描写が中心になっているように思いますが、それは、テレビやネットで映像を手軽に見られるようになり、情景を思い浮かべやすくなっているからなのかもしれませんね。
時代が変われば、物語の作り方も変わるのでしょう。