ウェブ1丁目図書館

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地域ごとに史跡を訪ねるのも京都観光の楽しみ方の一つ

国内外からたくさんの人が訪れる京都。

日本の伝統文化の中心地ということもあり、一年中、和の風情を楽しもうとする観光客が押し寄せています。多くの場合、京都ならではの食事や景色が目的で、観光客が集中するのも、それらの評判が高い場所です。

でも、京都の魅力はそれだけではありません。京都は、長い間、政治の中心だったこともあり、そこら中に史跡がごろごろしています。これら史跡を訪ね歩くのもまた、京都観光の楽しみ方の一つです。

朱雀大路を中心線として発展した洛中

ライターとして、歴史・文学、京都関係の雑誌、単行本などで、企画編集、取材執筆を行っている川端洋之さんの著書『京都歩きの愉しみ』では、京都に散らばる歴史の舞台を洛中、東山、洛北、洛西 洛南に分けて時系列で紹介されています。教科書に載っている大事件の現場、歴史上の人物の言い伝えが残っている場所が、短編として幾つも収録されています。

都を京都に遷したのは桓武天皇です。794年に長岡京から山背国と言われていた京都に遷都したのは、この地が四神相応の地とされたからです。四神相応の地とは、風水の思想で縁起が良い場所であり、北に山、東に川、南に湖、西に大道がある地です。そして、北は船岡山、東は鴨川、南は巨椋池、西は山陰道に囲まれた京都は、それにぴったり当てはまる地形だったのです。

北の船岡山からまっすぐ南に造られた道は朱雀大路で、この朱雀大路平安京の中心でした。朱雀大路を中心線に洛中は発展します。朱雀大路を南端までやってくると、東に東寺の五重塔が見えます。東寺とくれば西寺もあるはずですが、見当たりません。でも、かつては西寺も建っており、朱雀大路の南に左右対称に大寺院が置かれていました。

東寺を預かっていたのは空海、西寺の住持を務めていたのは守敏。両者は、干ばつの年に雨乞い合戦を行い、空海が勝利します。西寺が現存しないのは、守敏が雨乞いで空海に負けたからだと噂されていますが、おそらくそのような理由ではないでしょう。また、両者が雨乞いを行ったのは、洛中のど真ん中にある神泉苑という池で、平安時代末期には、ここで静御前が舞を披露したのを源義経が見初めたとも言い伝えられています。

なお、現在の京都には朱雀大路はなく、かつて朱雀大路が通っていた場所は千本通と呼ばれています。

陰謀渦巻く東山

洛中が政治の表舞台だったのに対し、鴨川の東側にある東山は、政治の裏の舞台といった顔を持っています。

平安時代末期の平家全盛期に俊寛僧都がクーデターを企てましたが、その密儀が行われた鹿谷山荘があったのは東山の奥深い山の中でした。今は桜の名所となっている哲学の道を横切って東山の森林の中に入って行くと、今も鹿谷山荘跡を示す石碑が置かれています。俊寛僧都は、平康頼などとともに鬼界ヶ島に流され、彼の地で没したとされています。平康頼は、後に許され都に戻ることができ、東山高台寺の近くにある雙林寺に彼のお墓があります。

豊臣秀吉が大仏を造営したのも東山でした。この大仏は、何度も火災に遭いながらも再建されてきましたが、昭和48年(1973年)に焼失して以降再建されていません。その大仏があった方広寺には、豊臣家を滅亡に導いた「国家安康」と「君臣豊楽」の銘が刻まれた梵鐘が今も残っています。梵鐘の銘を見た徳川家康が、これは徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を祝っていると難癖をつけ、大坂の陣に発展したことはよく知られています。

様々な伝説が残る洛北

京都市の北は洛北と呼ばれ、様々な言い伝えが残っています。

都の東北にそびえる鞍馬山は、いつしか天狗が出没する魔界といわれるようになります。鞍馬山の僧正ヶ谷の薄暗い場所には、魔王殿という建物があり、今も魔界を思わせます。この僧正ヶ谷は、源義経遮那王と呼ばれていた頃、天狗を相手に修業をした場所と言い伝えられています。また、洛北の大原寂光院は、源義経が平家を滅ぼした後、建礼門院が隠棲した地であり、平家物語では、ここで後白河法皇建礼門院が再会したと伝えています。

江戸時代に宮本武蔵が、吉岡一門と決闘をしたと伝わる一乗寺下り松があるのも洛北です。その一乗寺下り松の近くにある詩仙堂というお寺は、江戸時代初期に石川丈山が建てましたが、彼は、この地に隠棲したと偽装し、徳川の隠密として働いていたとも伝えられています。

文化人と縁のある洛西

京都の西にある洛西は、今も観光客で賑わう嵐山があります。

嵐山から渡月橋を北に渡ると小倉山に常寂光寺というお寺が建っています。この常寂光寺の境内は、鎌倉時代藤原定家小倉百人一首を撰した時雨亭があったと伝わっており、今も小倉山の中腹にそれを示す石碑が置かれています。

小倉山から東の方角には双ヶ岡という丘があります。北から南に向かって一ノ岡、二ノ岡、三ノ岡と並んでいることがその名の由来です。双ヶ岡のふもとに建つ長泉寺には、『徒然草』を書いた吉田兼好のお墓があります。吉田兼好は、二ノ岡西麓に庵を結んで暮らしており、ここでも、『徒然草』を執筆していたかもしれません。

また、小倉山のふもと近くにある落柿舎には、俳句で有名な松尾芭蕉が訪れています。落柿舎の庵主は彼の門弟の向井去来で、その名は、大風で一夜にしてほとんどの柿の実が落ちたことに由来します。松尾芭蕉は、落柿舎に訪問した際、「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」や「六月や峯に雲置くあらし山」といった句を残しています。芭蕉を中心とする蕉風の俳諧は、落柿舎で成熟したとのこと。

風光明媚な嵐山がある洛西は、文化人にとって魅力的な場所だったのでしょう。

洛南は権威失墜の地

京都の南は洛南と呼ばれ、多くの権力者がこの地で権威を失ってきました。

平家追討のため上洛した木曾義仲が、源義経に敗れて転落する原因となった宇治川の戦いが行われたのも洛南です。宇治川のほとりには、義経軍の梶原景季佐々木高綱が先陣争いをしたことを伝える「宇治川先陣之碑」が置かれています。

鎌倉幕府から朝廷の権威を取り戻すために後鳥羽上皇が挙兵した承久の乱の舞台となったのは鳥羽で、ここも洛南です。後鳥羽上皇が、城南寺明神御霊会の祭礼を行うことを口実に軍勢を集めたことが、鎌倉幕府の知るところとなり、あっけなく鎮圧されました。現在も、城南寺の鎮守社であった城南宮が鳥羽にあります。

権力をあっという間に手放すことになった代表的人物は明智光秀です。京都の南西にある天王山で羽柴秀吉に負け、敗走中に竹やりで突かれた小栗栖の藪は、洛南の伏見区で、その地には「明智藪」と刻まれた石碑が置かれています。

江戸幕府が新政府軍に敗れた鳥羽伏見の戦いもまた洛南で口火を切りました。慶応4年(1868年)1月3日に城南宮の西にある小枝橋付近で、薩摩兵が発射した1発の砲弾が合図となって開戦。新政府軍に錦の御旗が上がったのを知った徳川慶喜は、部下を置き去りにして大坂城から江戸に逃げ帰り、江戸幕府は終焉を迎えました。今も、西の桂川と東の城南宮の間に「鳥羽伏見戦跡」と刻まれた石碑が立っています。


『京都歩きの愉しみ』を読むと、一口に京都と言っても、東西南北、地理的な条件が異なると、歴史での登場の仕方が違っているのがわかりました。時系列で歴史の流れを解説した書籍は多いですが、京都を洛中、東山、洛北、洛西、洛南と5つの地域に分類して解説している書籍は珍しいですね。地理的条件も歴史や文化の発達に影響を与えていることがよくわかりました。