ウェブ1丁目図書館

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インターネットで検索しても調べたことにはならない

何かわからないことがあったら、インターネットで検索すれば答えが返ってきます。現代では、調べるというと、このインターネットで検索することが主流になっているのではないでしょうか。

先人の知恵を拝借するという意味では、インターネットは大変便利な道具です。しかし、誰も調べたことがないことを知る手段として、インターネットは最適な道具とはなりません。また、誰も気づいていないことは、インターネットに存在しません。そんな誰も知らないことや気づいていないことを見つけ出すには、やはり、自分で様々な場所から情報をかき集めてくるしかないでしょう。

課題は発信することで認知される

インタビュアーの木村俊介さんの著書『「調べる」論』は、各界で活躍する20人にインタビューした内容を収録しています。調べるとはどういうことなのか、調べることで何が変わるのか、調べるという実体験から学んだ内容が端的に紹介されています。

木村さんのインタビューを受けた教育社会学者の本田由紀さんは、「若者の実態と、若者について語る言説とは乖離」していると語っています。「若者について語る言説」は、単にテレビの画面などで見た若者の印象から、勝手に妄想したことを流布しているだけということが多そうです。いつの時代も、「最近の若い者は」と言う大人がいますが、おそらく、このように言う人は、実際に若者と接して会話をするなどをして「若者の実態」を確かめたことがないのでしょう。

恐ろしいのは、若者の実態を知らない大人の妄想が事実であるかのように社会に伝わっていくことです。そのような妄想を知ったところで、若者が抱えている問題を解決できないでしょう。実際に若者に接した大人でなければ、何が問題なのか把握するのは不可能です。

そして、実際に若者に接した大人が、社会に課題を提示することで、問題が解決していきます。貧困問題研究者の阿部彩さんのインタビューでは、2008年に親の国民健康保険料の滞納で、大阪府の2,000人の子供が無保険になっている事実が新聞で報じられたことが述べられています。この事実を社会に発信したことで、多くの国民がこれは問題だと声を上げ、子どもの無保険状態を解消する対策が取られました。

このような問題は、インターネットで調べられませんが、わかった事実を広く社会に発信する手段としては、インターネットは大きな手助けになります。

理論や通説より事実が正しい

理論や通説を知ることも、調べることとは、ちょっと違います。確かにある問題を解決する手段として、通説を知ることは役に立ちます。しかし、通説にしたがって行動したのに問題が解決しないという場面に出くわしたときには、その通説がまちがっている可能性があります。

雑誌編集者で農業問題に詳しい浅川芳裕さんは、日本の農業が弱いという通説を否定しています。日本の農業が弱いとされる理由には、高齢化、農家数減少、若者が来ない、農地が捨てられる、自給率が下がる、輸入が増えている、世界人口も増えている、日本人の経済力が落ちてきている、といったものがあります。しかし、これらは、まったくつながりがありません。それなのにつながりがあるかのような情報が広がっており、多くの人が、通説と信じ込んでいます。

浅川さんは、事実に近づかないで事実っぽいように書いているものが、世の中に溢れていると述べています。

また、為替ストラテジストの佐々木融さんも、事実や現実を認める地点から考え始めることが重要と語っています。ところが、多くの人は、理論ありきで現実を見ようとし、現実が理論通りでないと、現実がおかしいと考えてしまいます。しかし、正しいのは現実に起こっていることです。

この記事を書いている2023年12月時点では、円安が進み、日経平均株価が上昇しています。円安は円が売られているから起こり、それは、日本の経済に魅力がないからだと言われます。一方、日経平均株価の上昇は景気が良くなっている指標とされます。これら2つの理論が正しいのであれば、円安と株高は同時に起こらないはずです。でも、現実には、円安と株高が同時に起こっているのですから、理論がまちがっていると考えるべきです。

ミスを調べてわかったミスの意味

世の中では、あらゆる場面でミスが起こっています。小さな事務ミスもあれば、アクセルとブレーキを踏み間違えて大事故を起こす重大なミスまで様々あります。

果たして、死亡事故をミスと言って良いのでしょうか。

ヒューマンエラー研究者の中田亨さんは、ミスの研究を3年か4年続けていた時にミスとはどういうことか気づいたそうです。ミスとは、一言でいうと「不確かさ」なのだと。

字を書くという行為の場合、読み手が理解できる範囲であれば、汚い字でも許容できます。しかし、メモ用紙に自分でさえ読めない字を書いた場合、後から何を書いたのか理解できないので、許容範囲を超えています。そうすると、ミスをなくすとは、許容範囲に収めることだとわかります。

このような発想が生まれるのは、たくさんのミスを見てきたからでしょう。

中田さんのインタビューで興味深かったのは、重要なことほど早い段階で機械化が進むけど、いったん機械化した後は、古い機械が使われ続けるといった内容です。1年ほど前に自治体が数千万円をまちがって振り込んだ事件が起こりました。この時、自治体では、まだフロッピーディスクに振込データを記録して銀行に送っていたそうです。

なんで、フロッピーディスクという時代遅れの記憶媒体を使っていたのか疑問に思いましたが、おそらく、自治体では、振込という重要なデータは電子化した方が安全だと早い段階で判断し、フロッピーディスクに電子データを保存していたのでしょう。そして、その状態がいつまでも続き、すでにどこで売っているのかわからないフロッピーディスクを現在まで使い続けていたのではないでしょうか。

ミスを減らすために機械化しても、その後に機械の更新をしていかないと、新たなミスを防止するのが難しくなります。機械を導入したから安全、電子化したから安心ではないんですね。


インターネットで検索することは、また聞きでしかありません。それが事実かどうかを確かめるためには、自分の目、耳、足で調べるしかありません。調べるとは、本来、そういうことなのでしょう。