ウェブ1丁目図書館

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足利義満の死後に回復していった天皇の権力

天皇家は、二千年の長きにわたって続いています。

平清盛織田信長のような強大な武力を持った武士が登場しても、天皇家は途絶えることなく現代まで続いていますが、室町時代には、足利義満皇位簒奪計画により、その存続が危ぶまれた時期がありました。

足利義満は、とんちで一休さんに負けてばかりいる情けない将軍様の印象が強いですが、実際の足利義満は、誰も逆らえないほど強大な権力を握っていたのです。

天皇の血を引く足利義満

文学博士の今谷明さんの著書『室町の王権』では、足利義満皇位簒奪計画を中心に天皇家が現在まで存続している謎を解説しています。この本を読むと、なぜ、武士が強大な武力を持ったにもかかわらず、天皇家を滅ぼさなかったのか、その理由がわかります。

さて、足利義満ですが、彼は室町幕府二代将軍の足利義詮の子として産まれましたが、その母は、後円融天皇の母と姉妹でした。そして、母は、順徳天皇の血を引いていたので、足利義満にも天皇家の血が流れていました。ここに足利義満が、天皇や公卿に対して劣等意識を持っていなかったことがうかがえます。

天皇家に取って代われなかった鎌倉幕府

源頼朝武家政権鎌倉幕府を開き、北条泰時承久の乱の後、後鳥羽上皇流罪にしたことで、武家天皇家を滅ぼそうと思えば滅ぼせる状況になりました。しかし、北条泰時は、父の義時と謀って、一度も皇位についたことがない持明院守貞親王上皇とし、その子の後堀河を天皇に擁立して、皇統の再建を行います。

上皇は、治天の君とも呼ばれ、公家、寺社、武家の上に立ち、彼らの利害調整を行っていました。仮に鎌倉幕府が、天皇家を滅ぼしても、公家や寺社をまとめるだけの力はなく、北条氏が日本全土を統治することは不可能でした。そのため、北条氏は、皇統を温存し、背後で操る方策を選んだのだと今谷さんは述べています。

日本国王を目指す足利義満

足利義満は、日本国王を目指していました。そのためには、明から日本国王であることを認めてもらう必要があります。

当時の足利義満は、南北朝を統一した事実上の日本の最高権力者でしたが、形式的には、天皇から任命された征夷大将軍であったため、天皇の陪臣でしかありません。そのため、足利義満は、明の皇帝から日本国王と認めてもらえませんでした。

そこで、足利義満は、後円融院の没後も、着実に叙任権と祭祀権を手に入れ、自らが日本の統治者であるという既成事実の積み上げを行っていきました。また、将軍職を子の義持に譲り、自らは出家してその上に立ちます。これで、義満は、天皇から任命された征夷大将軍ではなくなりました。

後は、子の義嗣を皇位につけ、天皇の地位を奪い取り、自らが治天の君となれば、名実ともに日本の最高権力者になれます。そして、義嗣を立太子の礼に准じ、内裏で元服させることで、皇位簒奪計画は完成に近づきましたが、その3日後に足利義満は発病し、ほどなくしてこの世を去りました。

天皇家の力の回復

足利義満が亡くなった後、朝廷は、彼に太政天皇上皇)の称号を贈ろうとしましたが、室町幕府はこれを辞退します。そして、万世一系の皇統の維持に動き出します。

義嗣が天皇となれば、武家の地位はさらに上がることが期待できるのになぜ室町幕府は、皇統の維持を図ったのでしょうか。

その一つの理由は、幕府の有力守護が、足利義満一族から将軍と天皇を出すことで、足利氏が絶対的専制君主になることを嫌ったからとのこと。特に斯波氏は、足利氏の下風に立つことを潔しとしておらず、真っ先に反対する立場になければなりませんでした。南北朝の争乱を生き抜いた守護たちにとって、足利氏への権力の集中は、非常に危険な状態であると考えたわけですね。

また、中性を下るにつれて家業の観念が社会的に牢固となっていたことも、足利氏から皇位につく者が現れるのを拒否する原因になったとも指摘しています。

その後、室町幕府は弱体化していき、代わって、天皇家の力が徐々に回復していきます。応仁の乱では、細川勝元の西軍追討綸旨の要求を後花園天皇が断固拒否し、自らの中立の立場を貫きました。これが先例となり、戦国時代には、大名間・権力者間の和平調停を天皇が行うようになっています。織田信長本願寺の和平調停も当時の天皇によって実現しています。


もしも、足利義満が急死しなければ、天皇家は、足利氏に乗っ取られていたかもしれません。そうなっていたら、現在の天皇制は、また別の形になっていたでしょう。