ウェブ1丁目図書館

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院政は江戸時代まで続いた

天皇が存命中に譲位すると、太上天皇となります。省略して上皇と呼ぶのが一般的です。

上皇が、権力を握り政治を行うことを院政といい、平安時代末期の白河上皇鳥羽上皇後白河上皇院政を行った上皇として特に有名です。上皇は、現代の会社でいうと会長のような存在です。本来、社長が会社のリーダーなのですが、会長の言うことに逆らえず、会長の意見が会社を動かす場合があります。

院政もこれと同じで、社長である天皇よりも、会長である上皇の意思が政治に反映される状況にありました。

ミウチの政治の終焉

院政については、日本中世史を専門とする美川圭さんの著書『院政』で、その始まりと終わりまで一般向けに解説されています。院政の全体像をつかむのに良い本です。

太上天皇上皇)の称号が最初に使われたのは、697年に持統天皇が孫の文武天皇に譲位した時です。そして、院政の始まりとされるのが、応徳3年(1086年)に白河天皇堀河天皇に譲位した時とされています。

院政は、上皇になると直ちに行えるわけではありません。直系の子や孫を天皇の地位につけることができた上皇だけが、その親権を行使することで院政を行えました。そのため、弟に譲位した上皇院政を行えませんし、父院が存命中の上皇院政を行えません。

白河上皇は、賀茂川の流れ、比叡山の僧、サイコロの目は、自分の意思でどうにもできないと嘆いていましたが、裏を返すと、この3つ以外は白河上皇の意のままだったと言えます。ところで、白河上皇は、このような絶対的権力をどうやって手にできたのでしょうか。

院政が始まる前は、藤原氏が関白や摂政となって政治を行っていました。これを摂関政治といいます。摂関政治で有名なのは、藤原道長です。彼は、自分の娘を入内させ、天皇外戚となることで、権力を手にしていきました。藤原道長の頃は、ミウチにより政権中枢の独占を行えましたが、彼の子の頼通の時代になると、入内させられる娘の数が減り、白河上皇の父の後三条天皇の頃にはミウチの数が少なくなっていました。

こうして、藤原氏の政治に対する発言権は弱まってきたのですが、さらに堀河天皇が亡くなった後、白河上皇が孫の鳥羽天皇を5歳で即位させたときに藤原氏の権力は弱体化します。幼い天皇が即位した時は、天皇外戚である者を摂政とし政治を補佐するのが慣例でしたが、白河上皇は、その慣例を破り、外戚でないものを摂政としたのです。

そして、弁官、蔵人、文章博士といった実務官僚などを天皇の命令の忠実な執行者にしました。彼らは、人事などの重要な問題で上皇から諮問を受ける顧問のような立場にあり、上皇の近臣として大きな力を発揮するようになります。これが、政界におけるミウチの比重を下げることになりました。

院政全盛期から平氏政権へ

白河上皇は、堀河、鳥羽、崇徳と曾孫にいたる直系の子孫を即位させることに成功し、院政の全盛期を迎えます。また、軍事力も増強され、北面の武士と呼ばれる組織も整備されました。

白河上皇は、鴨川の東に九重塔を建立するなど、強大な権力を握っていました。

院政の全盛期は、白河上皇の孫の鳥羽上皇の時代まで続きます。しかし、鳥羽上皇の妻の待賢門院が白河上皇と不倫し、生まれたのが崇徳天皇だとの噂が流れたことで、王家の分裂が始まり、やがて保元の乱が勃発します。

崇徳天皇は、鳥羽上皇に疎まれ、早々に弟の近衛天皇に譲位させられました。そして、崇徳天皇上皇となりますが、父の鳥羽上皇が存命中だったため、院政を行うことができません。不遇の時代を過ごしてきた崇徳上皇でしたが、近衛天皇が若くして亡くなり、鳥羽上皇もこの世を去ったことで、院政を行える立場になりました。ところが、近衛天皇の後に即位したのは、弟の後白河天皇だったので院政を行えず、その怒りから保元の乱を起こしました。

しかし、乱はすぐに鎮圧され、崇徳上皇流罪となり後白河天皇の時代となります。

保元の乱では、王家だけでなく藤原氏も分裂し、弱体化していきました。このような状況で、後白河天皇の時代に政治を切り盛りしていたのは信西でしたが、彼もまた暗殺され平治の乱が勃発します。この乱では、平清盛が勝利し、政治の中枢に平氏が入ることになりました。

後白河天皇は、すでに二条天皇に譲位して上皇となっていましたが、保元の乱で弱体化した王家は武力も財力も乏しかったため、院政を行うと言っても、平氏の力なしでは政権を維持できない状況でした。

それでも、後白河上皇は、何度か平氏の転覆を画策します。しかし、そのたびに計画が露見し、ついには平清盛に幽閉されてしまいます。そして、平清盛は、安徳天皇外戚となり、天皇の父である高倉上皇院政のもとで、力を強大化していきました。

後醍醐天皇院政のために鎌倉幕府を滅ぼした

高倉上皇は、平氏の傀儡だったため、政治は平氏が行っていました。

しかし、高倉上皇平清盛が亡くなると、平氏を継いだ平宗盛が政権を後白河上皇に返上したため、政界での平氏の発言力は弱まり、やがて、源氏によって滅ぼされます。

一方、後鳥羽天皇を即位させ院政を行った後白河上皇でしたが、すでに王家の権威は地に落ちており、上皇が出す命令である院宣には大した効力がなくなっていました。そして、政治は、朝廷から源頼朝が開いた鎌倉幕府に移り始めます。

後鳥羽天皇上皇となり、院政を行いましたが、その目的は政治ではなく和歌に代表される遊興にありました。しかし、鎌倉幕府との仲が悪くなり、承久の乱で敗北した後、流罪となります。

承久の乱後も、院政は行われましたが、即位経験のない後高倉法皇院政を開始する前例のない事態になっていました。形式的な院政ではありましたが、それは、院政がすでに当たり前となったことを意味するものでもありました。

その後、後嵯峨上皇院政を行うことになりますが、これ以降、王家が大覚寺統持明院統に分かれて、交互に天皇を即位させる両統迭立の時代に入ります。そして、大覚寺統後醍醐天皇が、両統迭立の決まりを破り、持明院統皇位を渡そうとしませんでした。ここから、王家が分裂し、南北朝時代に突入することになりますが、その前に後醍醐天皇鎌倉幕府を滅ぼすことに成功します。

鎌倉幕府の滅亡は、承久の乱以前に上皇が持っていた王の人事権と軍事指揮権を回復することになります。これは、後鳥羽上皇以前の院政の権限を獲得することにつながることから、後醍醐天皇は、院政の姿を回復するために討幕を志したと考えられます。しかし、後醍醐天皇の新政は、わずか3年で瓦解し、政治は室町幕府が担うことになり、3代将軍足利義満の時代に院政はその役割を終えました。

ただ、院政という形は、その後も残り、江戸時代まで続きます。明治となって、天皇が原則として存命中に譲位しなくなったことから、院政は消滅することになります。


院政は、平安時代後期の白河、鳥羽、後白河が有名ですが、この時代以外にも行われていました。当初の院政は、上皇による独裁色が強かったですが、鎌倉時代になり、後嵯峨上皇院政期には、制度化されたものとなっており、上皇の独裁色が弱まっていたことがわかります。

再び上皇の独裁体制を取り戻そうとしたのが後醍醐天皇でしたが、南北朝の争乱を招き、王家の弱体化を加速させただけでした。

院政は、王家にとって良いものだったのか疑問が残ります。