自分が生きている社会には、深く意識しない事柄もあれば、違和感を感じる事柄もあります。
違和感は、社会や自分の価値観に収まらない事象が発生した時に感じますが、違和感を感じる事柄はそうそう起こりません。起こっていないというよりも、経験を重ねるごとに違和感を感じなくなっていると言った方が適切かもしれません。
また、社会の統計情報を目にすることで、自分が経験していなくても、それがあたりまえなのだという知識が身についてきます。特に現代のような情報化社会では、自分の経験から得た情報以上に伝聞による情報の方が多くなり、初見の事柄であっても違和感を感じなくなっているように思います。
あたりまえは本当にあたりまえなのか
すでにわかりきっていることに違和感を感じていては、毎日、頭が疲労してしまいます。世の中の常識となっていることをどこかで情報として入手したのであれば、それについて深く考えるのは時間の無駄とも言えるでしょう。しかし、あたりまえとして受け入れている事柄を再考することで、新しい発見があるかもしれません。
差別の社会学、エスノメソドロジー、映画の社会学を専門とする好井裕明さんの著書『「あたりまえ」を疑う社会学』は、タイトル通り、世の中の「あたりまえ」が本当にあたりまえなのかを考えさせられる内容となっています。また、社会学での調査がどのように行われているのかも知ることができます。
社会学では、世の中のことを調べる際、まず仮説を立て、それを検証できるように調査項目を考え、個々の質問文を考えます。そして、調査票を作成し、実際に対象者に回答してもらい、集められたデータから統計的な処理を行って結果をもとに分析を進めていきます。我々は、こういった作業により作られた情報を新聞やテレビのニュースなどで知り、社会全体がどのように動いているのか大雑把に把握しているわけですね。
俯瞰的に社会を見る場合、こういった情報は有用です。でも、統計的に処理された情報ばかりを目にしていると、多数派をあたりまえだと思い込み、少数派の意見が無視される可能性があります。もしかすると、多数派のあたりまえは、じっくり考えるとおかしいことなのかもしれませんが、そんなことまで考えて生きている人はあまりいないでしょう。
あたりまえを解きほぐす
社会学の中には、我々の暮らしの大半を覆っているあたりまえの世界を解きほぐし、そのなかにどのような問題があるのかを明らかにしていこうとする営みがあり、それをエスノメソドロジーというそうです。つまり、世の中のあたりまえの中に感じた違和感から研究が始まっていくということですね。
ここで、あたりまえとは、無意識のうちにやっていることとは異なり、さまざまな「方法」を微細に駆使しつつ他者とともに生きている状態と捉えるようです。例えば、家事をするのは女性の仕事という価値観があたりまえとなっている社会では、無意識に女性が家事をしていたり、あるいは無意識に女性に家事を求めているといった状態ではなく、他者と意識をすり合わせることで女性が家事をするような社会を築いているということなのでしょう。
それは、恣意的な決めつけを要請する「支配的な文化」であり、社会にはたくさんのカテゴリーが満ち溢れた状態となっています。その膨大なカテゴリーをあたりまえと受け入れ社会は成り立っていると言えます。
女性の社会進出は、女性が家事をするのがあたりまえという支配的な文化に風穴を開けなければ強調されなかったはずです。社会学の意義は、あたりまえを疑い、支配的な文化に内在する問題を解きほぐし、そこに解決すべき課題があるかどうかを思考することにあるのでしょう。
普通などはない
「あたりまえ」と似た概念に「普通」があります。
普通という言葉には、誰もが持っているもの、あるいは誰も持っていないものといったように大多数の人と共通している事柄といった印象があります。そして、普通に当てはまらなかった場合、そこに異常を見出します。
しかし、人それぞれ違った人生を生きており、一人として同じ人生を生きている人はいません。きっと、社会の多くの人の合意を得た枠に収まっているかどうかで普通か普通でないかが判断されているだけでしょう。そして、その枠の大きさを決定するのが、あたりまえの感覚なのだと思います。
好井さんは、「普通であることの権力」は、「日常の私たちの暮らしのなかで起こる、さまざまな『生きる手がかり』『生き方を見直すきっかけ』を隠蔽してしまう」と指摘しています。社会に生きづらさを感じるのは、多くの人々が作った「普通」の枠に収まらなかったことで起こっているのかもしれません。そして、その問題は、普通の枠の中から見ていても気づくことはなく、その外に出ることではじめて気づくのでしょう。
社会をより良くしていくためには、「あたりまえ」や「普通」を疑うことから始めなければなりません。社会の中にある無数の問題を個々人の問題だと考えるのは、「あたりまえ」や「普通」を疑わない態度から出てきます。そして、そのような見方をしているうちは、社会が抱える問題を解決できないでしょう。