読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

一瞬の落馬事故が一生を変える。競馬ファンはその事実を知らなければならない。

明智光秀は、主君織田信長を本能寺で討つ数日前に愛宕神社でおみくじを引きました。

その結果は凶。2度目を引いても凶。3度目を引いても凶。

光秀は、織田信長を討つことはできましたが、間もなく山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れて討ち死にしています。愛宕神社で引いたおみくじの数は3度と伝えられていますが、何度おみくじを引いても凶しか出てこなかったとも伝えられています。

こんなことが現実に起こるわけないと思うでしょう。

でも、2006年の正月にこれと同じ経験をした人がいます。その人は石山繁さん。職業は騎手です。

11回連続凶

石山さんは、ある神社に初詣に行った時、おみくじを引きました。結果は凶。それに納得しなかったのか石山さんはもう一度おみくじを引きます。しかし、2度目も凶。半ば意地となった石山さんは3度目のおみくじに挑戦します。でも、結果は凶。3回連続凶を引き当てた石山さんは、その時点でおみくじをやめました。

それから1年経った2007年の正月。

石山さんは、家族に隠れて再び同じ神社に一人でおみくじを引きに行きます。再挑戦とばかりに挑んだおみくじは、なんと7回連続で凶。

もしかしたら、おみくじの中には凶しか入っていないのかも。

家に帰った石山さんは、家族と一緒にまた同じ神社に行き、全員でおみくじを引きました。2人のお子さんはそれぞれ中吉と小吉。妻の依織さんは大吉を引き当てました。

どうやらおみくじの中には凶以外も入っているようです。しかし、11度目のおみくじに挑んだ石山さんは再び凶を引きます。

おみくじの内容が現実に

この話は、石山繁さんの妻の依織さんの著書「落馬脳挫傷」に書かれていたものです。

石山さんが引いた凶のおみくじの中のひとつに「生死は十中八九死」という文言が記載されていました。


さすがに11連続も凶を引いた石山さんは、神社にお祓いをしに行きます。しかし、その日は、参拝者が多くお祓いはできないと断られます。

でも、神社の巫女さんが、石山さんがお祓いの申込みの際に職業欄に「騎手」と書いていたことに気づき、今日、明日を生きている人を後回しにすることはできないとして、その日のうちにお祓いをしてもらうことができました。


それから1ヶ月半後の2007年2月24日の阪神競馬場4レースの障害競走。

サフランリザード号に騎乗した石山さんは、1周目の障害着地時に同馬がつまづいたため転倒し病院に救急搬送されました。

意識がない状態で集中治療室に入った石山さん。診断は脳挫傷でした。

シゲルの脳は、左側にも出血が広がり始めていた。右側頭部から馬場に叩き付けられたのだが、出血は両側頭葉。衝撃と振動により脳の神経が波打つようにバラバラになり、打った箇所と反対サイドにもダメージを負ったのだという。
「タッパーに豆腐を入れて地面に落としたときの状態に近いイメージです」
先生のわかりやすすぎる説明を聞いてゾッとした。タッパーの中でグチャグチャになった豆腐の絵が頭の中からしばらく消えない。シゲルの脳は元通りにならないんじゃないかと、さらに気持ちが落ち込む。(19ページ)

意識不明の重体。

脳挫傷からの生還は極めて難しく、まさに「十中八九死」という言葉がふさわしい大けがです。しかし、病院の懸命の治療により石山さんは奇跡的に生還します。

ただ、意識は戻ったものの記憶は失われており、ここから石山家の壮絶な戦いが始まるのでした。

人間としての理性が働かない

記憶を失った石山さんは、はじめは誰を見ても「カサハラさん」と呼んでいたのですが、次第に記憶が戻り始めます。

人間の脳は不思議なもので、記憶が少しずつ戻ってくるのではなく、明らかに変わるタイミングがあるようです。落馬から4ヶ月後の7月1日に石山さんは、それまで読めなかった字が読めるようになっていました。

また、普通だと人は最近のことをよく覚えており、昔のことほど忘れているのですが、事故後の石山さんは昔のことは、はっきりと覚えており、最近の記憶が全く思い出せない状態だったそうです。


記憶が戻ってくれば、他人と意思疎通ができるので、体は思うように動かせなかったとしても、これまでに近い状態で私生活を送れるように思いますが、そんなことはありません。

事故後の石山さんからは理性が失われていたのです。


ちょっとしたことでも、石山さんはすぐに怒りを表に出すようになっていました。

ただ、本能的に「怒り」の感情だけは強くわき上がってくるらしい。気に入らないことがあると、あたり構わず怒り、喚く。言葉で諭そうとしても通じないし、かといって力で押さえつけるわけにもいかない。これには本当に悩まされたし、体力も消耗させられた。(105ページ)

道を歩いていて、前から来た人とすれ違う時に肩がぶつかったとします。多くの人は、たとえ相手が悪かったとしても、こんなところで揉めても仕方がないから、文句を言わずにやり過ごすことでしょう。

しかし、事故後の石山さんは、こんな場合でも相手に怒りの感情をぶつけるようになっていました。

悪いのは相手なのですが、状況を判断して、怒りを抑えるということができなくなっていたのです。


僕は、この本を読んでいて、人間らしさとはこういうことなんだと気付かされました。いや、人間だけでなく動物とは、他者との関係を意識しながら、その場の状況を考え行動する生き物だとわかりました。

動物だって、他者と揉めることがないように一定の距離をとり、不用意に相手を刺激しないようにします。しかし、脳がダメージを受けると、こういったことを考えられなくなり、本能が理性に勝った状態となるのかもしれません。


石山家では、繁さんが理性を取り戻すまで大変苦労されたそうです。

騎手として再帰するためにリハビリを頑張る石山さん。しかし、石山さんは騎手免許を更新することなく2009年2月28日に引退しました。

なお、本書は、騎手免許の更新前で話が終わっています。

馬券はまた買えばいい

競馬ファンの中には、レースに興奮して、「落ちろー」などとレース中の騎手に向かて野次を飛ばすことがあります。

時速60km~70kmで疾走する競走馬から落ちることが、どれほど危険なことかを理解していればこのような言葉は口から出ないはず。騎手は、一瞬の落馬事故で一生が変わってしまう大変危険な職業です。競馬ファンには、その事実をしっかりと理解してもらいたいですね。馬券は外れても、また買えばいいのですから。


最近も佐藤哲三騎手が落馬事故が原因で引退しました。何度も手術をして再起を目指していましたが、結局は現役続行をあきらめたそうです。

佐藤さんは、タップダンスシチ―、エスポワールシチーアーネストリーでG1レースに勝利しています。

引退会見の時、関係者が一丸となってアーネストリーで挑んだ2011年の高塚記念宝塚記念で勝利したことが、最も印象に残っていると語っていました。また、馬券を買っているお客さんは3着までに自分が買っている馬が入れば的中するのだから、1着だけがすべてだとは思わずにレースに臨んでいたとも語っていました。


ファンを思う騎手がいるのですから、ファンも騎手のことをもっと深く知る必要があります。

多くの競馬ファンに騎手が危険な仕事であることを知ってもらうためにも、事故で引退された騎手やその関係者の方には、手記を出版していただきたいですね。

落馬脳挫傷 -破壊された脳との闘いの記録-

落馬脳挫傷 -破壊された脳との闘いの記録-