2007年5月27日に日本競馬界に革命が起こりました。
それは、3歳牝馬(メスの馬)のウオッカが、牡馬(オスの馬)を相手に日本ダービーを制覇したことです。これまでの日本競馬では、3歳牝馬は、1週前に行われる牝馬限定のG1レースであるオークスに出走するというのが常識でした。しかし、ウオッカ陣営は、オークスの出走をパスし、牡馬相手の過酷なダービーに出走することを決断し、そして、見事結果を残しました。
この競馬界に革命をもたらしたのが、調教師の角居勝彦さんです。
抜け殻のようになった自分を変える
角居さんは、著書の「挑戦!競馬革命」で、ウオッカでのダービー勝利について以下のように述べています。
何事においても常識は必要ですが、常識ばかりにとらわれていては、新しいことはできません。時に非常識になることは、新たな道を開拓するために必要である。
こんな思いは、日本ダービーの勝利で、一層高まることとなりました。
(26ページ)
角居さんは、グランド牧場で働いた後、競馬学校の厩務員課程に進み、卒業後は、栗東トレーニングセンターの中尾謙太郎厩舎に厩務員として配属されました。
中尾厩舎では、ナリタハヤブサという素質馬を担当。
ナリタハヤブサは、ウィンターステークスで初重賞勝利をすると、フェブラリーハンデ、ウィンターステークス連覇、帝王賞とダート重賞を総ナメにする活躍を見せました。活躍するナリタハヤブサを可愛いらしく思うのは当然のことで、角居さんは、当時は競走馬をペットのように扱っていたとのこと。
そのような気持ちで馬に接していたので、ある時、レースの事故で担当馬が安楽死となった時は、ものすごくショックだったそうです。
競走馬がレース中の事故で安楽死となることはよくあること。しかし、それを恐れて中途半端に競走馬と接していては、馬は強くなりません。だから、馬に厳しい調教をするようにと調教師が指示をするのですが、角居さんは、それに納得しないまま、「(壊れても)俺の責任じゃない」と自分に言い聞かせて、馬と接していました。
中途半端な気持ちで仕事をしても、厩務員として年収1,000万円程度稼ぐことができたので、角居さんは、当時、趣味に明け暮れる日々だったそうです。
しかし、同い年のいとこの突然の死により、角居さんは考え方を改めます。若くして亡くなったいとこの無念さを思うと、抜け殻のように毎日を過ごしている自分に嫌気がさしたのです。
そして、角居さんは、心機一転、中尾厩舎を去り、開業間もない松田国英厩舎に転厩することを決意しました。
常識を打ち破る調教
松田国英調教師は、クロフネ、タニノギムレット、キングカメハメハといったG1馬を輩出した調教師です。
角居さんが、常識にとらわれていては新しいことに挑戦できないと知ったのは、松田厩舎で調教助手として働くようになってからです。
松田さんは、タニノギムレットを皐月賞→NHKマイルカップ→日本ダービーという当時としては考えられないローテンションで出走させて、日本ダービーを勝たせたり、ダイワスカーレットを2000m→1800m→1600mと、使うレースの距離を少しずつ短縮させていき、1600mの桜花賞を勝たせたりと、これまででは非常識とされていた方法で結果を残していきました。
また、レース前の調教も軽いもので、「これで足りるのか?」という程度しか行いませんでした。
松田厩舎が行っている軽い調教を先に行っていたのは、森秀行厩舎でした。森厩舎も坂路調教を1本で終えるなど、比較的軽い調教しか行わず、馬の体調が崩れるとすぐに放牧に出すというやり方で、これまでの強い調教という常識を最初に転換しています。
角居さんは、調教師になった時、森厩舎で勉強し、軽い調教でも結果を残せることを実感し、これまでの強い調教という固定観念を打ち破ります。
日本語には、「普通」という言葉がありますが、この言葉の不自然さを気付かせてくれたのは、タイキシャトルで海外G1を制覇した藤澤和雄調教師でした。
多くの厩舎では、レース直前以外の普段の調教では、200メートルを20秒で走らせる調教が一般的でした。これを普通調教と言いますが、藤沢厩舎では200メートルを15秒で走らせる調教を普段から行っていました。
何の疑問も持たずに、
「普通調教が強いですね。毎日、こういう時計ですか?」と聞きました。
すると即座に「角居君、”普通”って何だ?」と。
考えてみれば、誰が決めたかわからないまま、普通だと思われていたことを、誰もが疑問をもたずに行っていたわけです。(64~65ページ)
未勝利馬とオープン馬では、中身がまったく違うのですから、同じ20秒や15秒で走らせても、負荷が異なります。人間が思う普通は、馬にとっては普通じゃなかったのです。角居さんは、調教は馬ごとに変えなければならないことを藤澤さんの言葉から学ぶことができました。
数々の挑戦から革命が起こり、やがて当たり前となる
角居さんは、厩舎を開業してから、デルタブルース、カネヒキリ、シーザリオというG1馬を次々に育てていきました。
これらのG1馬が育ったのは、角居さんが、これまで常識とされていた事にとらわれず、数々の挑戦を行ってきたから。菊花賞を勝ったデルタブルースは、レース直前でも軽い調教しか行わなかったので、これまでの常識にとらわれていた厩舎のスタッフたちは疑心暗鬼となっていましたが、結果を出したことで”これでいいの?”というムードが払しょくされました。
また、シーザリオは日本のオークスを勝った後、アメリカンオークスに出走し、見事、角居厩舎初の海外G1制覇を達成しています。シーザリオの日米オークス制覇は史上初の快挙。角居さんがアメリカンオークスに挑戦しなければ、このような偉大な記録は生まれませんでした。なお、この偉大な記録達成の影には、前年にダンスインザムードでアメリカンオークスに挑み、2着に惜敗した藤澤和雄調教師の功績があります。
そして、2007年の日本ダービーに管理場の3歳牝馬ウオッカが挑戦し、2着馬に3馬身差をつけて勝利しました。牝馬の日本ダービー制覇は64年前のクリフジ以来のことです。
日本ダービー制覇後、ウオッカは、数々のG1を勝ちましたが、ダービーと同じ東京競馬場の芝2400mで行われた2009年のジャパンカップの勝利は、その後の日本競馬界に革命をもたらしたと言ってもいいでしょう。
これまで、牝馬が牡馬相手に東京の2400mのG1に勝つことはおろか、出走自体もほとんどありませんでした。この距離で行われるレースでは、なかなか牝馬が結果を出しておらず、しかも、最後の直線が長く坂のある東京競馬場は、牝馬にとって過酷すぎることが、その理由だったのでしょう。
しかし、ウオッカのジャパンカップ制覇の後は、ブエナビスタ、ジェンティルドンナがジャパンカップに挑み、勝利を飾っています。特にジェンティルドンナは3歳の時に勝つという大記録を出したかと思うと、翌年には連覇を果たしています。3歳牝馬の勝利も連覇もジャパンカップ史上初の快挙です。
これまで、無理と思われていた牝馬のジャパンカップ制覇ですが、実は、瞬発力のある牝馬には持って来いの舞台なのかもしれません。牝馬は、レースの終盤で発揮する末脚が鋭く、「牝馬の切れ味!!!」なんて実況をよく聞きますから、東京の長い直線で、その持ち味を発揮しやすいのではないでしょうか?
もしも、角居さんがウオッカでジャパンカップに挑戦しなければ、今も牝馬のジャパンカップ出走は無謀なことと批判されていたことでしょう。当然のことながら、牝馬のジャパンカップ制覇もあり得なかったはずです。
日本競馬界に革命をもたらしたウオッカの日本ダービー制覇は、普通という言葉に疑問を持つこと、すなわち、常識とされていることにとらわれず挑戦したことによってもたらされたのではないでしょうか?
- 作者:角居 勝彦
- 発売日: 2007/12/08
- メディア: 新書