ウェブ1丁目図書館

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考えるためには記憶が必要

人は年齢を重ねると、多くのことがわかるようになります。

子どもの時は、学校の先生から教わることで、国語や算数がわかるようになります。大人になれば、社会経験を積むことで、仕事に関することや政治に関することがわかるようになります。

ところで、この「わかる」とは、どのような感覚なのでしょうか。

考えなければわからないことはない

「わかる」がどういうことかなんて、当たり前すぎて考えたこともありません。でも、当たり前と思っている「わかる」という感覚を説明しろと言われても、どう説明していいのかわかりません。

「わかる」の反対は「わからない」です。人は生まれたばかりの時は、わからないことだらけですが、成長に伴い、わからないことがわかってくるようになります。「わからない」から「わかる」に行きつく過程には何かがあるはずです。その何かを見つければ、「わかる」がどういう状態になることなのか理解できるはずです。

医学博士の山鳥重さんの著書『「わかる」とはどういうことか』は、タイトル通り、「わかる」という状態について解説されています。平易な文章で書かれているので、医学の知識がなくても、すらすらと読めます。

「わかる」「わからない」という表現は、考えるからこそ出てくる言葉です。何もかもわかっていれば考えることはありません。誰もが、毎日何かを考えながら生きていますから、我々は、わからないことだらけの社会で生きていることになります。

心には、感情と思考の2つがあります。感情は、心の全体的な動きで、ある傾向を表し、漠然とした好き嫌いのように理由ははっきりしません。一方の思考は、心象という心理的な単位を縦に並べたり、横に並べたりして、それらの間に関係を作り上げる働きです。

この何かと何かの関係を作り上げることができたとき、わかったという状態になります。

わかるためには好奇心が必要

我々は、五感と呼ばれる知覚を介して新しい経験を受け入れることができます。見たり聞いたりして入ってくる情報に「おや何だ」と心が動かされるところから、思考が始まります。しかし、「おや何だ」と思うためには、好奇心が必要です。

したがって、思考が始まるためには、好奇心がなければならないのです。

これは何だと思い、細長く先が尖った物体を手に取り、おもむろに反対側のボタンを押すと、尖った先からさらに細長い黒い芯が出てくるのを見て、「これはシャープペンシルだ」と認識します。

心象には、今・現在自分のまわりに起こっていることを知覚する知覚心象とその知覚心象を支えるために動員されるすでに心に溜め込まれている記憶心象の2つがあります。

細長く先が尖った物体を手に取った時、心は事実をいったん五感に分解して脳に取り込み、神経系で処理できる部分だけをもう一度組み立て直します。その組み立て直されたもののうち、意識化されるものが知覚心象です。この知覚心象を記憶心象と照らし合わせることで、「これはシャープペンシルだ」と知るのだそうです。

言葉を知ることがわかることには必要

「これはシャープペンシルだ」と知るためには、シャープペンシルという言葉を事前に知っておかなければなりません。つまり、言葉をあらかじめ記憶しておくことが、わかるためには必要なのです。

だから、多くのことを暗記するほど、物事がわかるようになります。しかし、言葉を覚えるだけでは、本当に「わかった」という感覚にはなりません。

足を交互に前に出して進む動作には、「歩く」と「走る」があります。「歩く」は、ゆっくりと前に進み、左右どちらかの足が必ず地面に着いています。一方の「走る」は、「歩く」よりも速く前に進み、両足が地面から離れることがあります。

この「歩く」と「走る」の定義を暗記したから、それぞれがどういうことなのかわかったという人は、おそらくいないでしょう。歩いたり走ったりすることを経験し、自然と歩くと走るの心象を作り上げ、その心象に名があることを後から知ったはずです。

このように最初は経験した出来事が記憶されます。そして、似た経験が繰り返されると重なり合う部分が出てくることに気づきます。この状態では、物事をはっきりとイメージできませんが、それに名前を付けることで他の物事と区別できるようになります。これが意味の記憶と呼ばれるものです。

一方、何度も繰り返し実践することで蓄積する記憶を手順の記憶といいます。九九を何度も口に出して覚えるのは、手順の記憶の具体例ですね。

我々が、新しい事象に遭遇する時、この意味の記憶と手順の記憶を動員して、わかろうとします。そう、「わかる」ための土台となるのは、これら記憶なのです。


最近は、学校で暗記ばかりさせていると考えられない大人になると言われることがあります。確かにただ物事を記憶するのを目的とした授業は、思考力を磨かないかもしれません。しかし、我々は、物事を記憶しなければ考えることができないので、必ずしも暗記が役に立たないとは言い切れません。

記憶は、考えるため、そして、「わかる」ために大切なことなのです。