江戸時代、米は食品でもあり、通貨でもありました。
幕府や大名は、毎年の米の収穫高の一部を年貢として徴収し、それを旗本や家臣たちの手当てとしていました。また、米は、売却されて貨幣と交換されることもありました。
江戸時代に米を貨幣と交換した市場として有名なのが、大坂堂島米市場です。貨幣経済が発達し始めていた江戸時代、各藩は、米を大坂に輸送して売却し、現金収入を得ていました。
米手形から米切手へ
大坂堂島米市場は、現代から見ても、非常に先進的な金融市場であったと言われています。先物取引が最初に行われたのは、大坂堂島米市場だと言われることもありますね。
ミクロ政策分析を専門とする高槻泰郎さんの著書「大坂堂島米市場」では、その名の通り、大坂堂島米市場の誕生から終わりまでが、一般向けにわかりやすく解説されています。
大坂に米市ができたのは、江戸時代が始まった17世紀と考えられます。詳しい年代まではわからないのですが、承応3年(1654年)の史料に登場しているので、それまでには米市が形成されていたようです。
各藩が大坂に輸送した米は、米市で取引されました。代銀の3分の1を支払うと米手形が発行され、期限までに残代銀とともに手形を藩の蔵屋敷に持っていけば、米と交換できました。
さて、この米手形ですが、売買の対象となりました。最初に米手形を入手した者が、他者に転売して利益を得る行為が横行します。そうすると、本当に米が必要な人が、高値で米を買わなければならなくなります。これを問題視した幕府は、米手形での取引をやめさせようとしました。しかし、米手形の取引をやめさせることは難しく、代銀の支払期限を10日とすることで転売の抑制を図りました。
ところが、残代銀の支払いは期日までに行われるようになっても、全代銀完納証として米切手が発行されると、今度は、それが売買の対象となります。米切手は、入手してすぐに米と交換しなくてもよく、必要な時に蔵屋敷に持っていけば米と交換できました。
帳合米商いの開始
大坂堂島米市場での米の売買単位は10石でした。1石は1,000合なので、10石は10,000合になります。
これだけ多くの米を取引できる財力を持っている人は限られています。そこで、新たに登場した取引が帳合米(ちょうあいまい)商いでした。
帳合米商いは、一種の先物取引で、自由自在に米取引できた方が便利だとして行われるようになりました。
例えば、今、10石の米切手を600匁(もんめ)で買ったとします。しかし、米相場が値下がりし、600匁以上で米切手の買い手を見つけることができません。そこで、誰かに将来のある時点で、例えば2ヶ月後に米切手を600匁で売る約束をしておきます。そして、2ヶ月後に米相場が10石550匁に下がっていれば、米市場から550匁で米を買い、その誰かに600匁で売ることで、差引50匁の利益が得られます。
この時、すでに持っている10石600匁で買った米切手の時価は550匁に下落して50匁の損が出ています。しかし、帳合米商いで儲かった50匁の利益と相殺すれば、損得は発生していません。
帳合米商いでは、実際に米が動くことはありません。ただ、将来、600匁で売ると約束し、その将来がやってきたときに550匁に米相場が下落していれば、差額の50匁だけを取引相手から受け取って取引は終了となります。
現代の先物取引でみられる差金決済が、大坂堂島米市場では行われていたんですね。
幕府の市場介入
米切手の売買や帳合米取引は、時に問題を起こすことがありました。
大名が、実際の収穫高以上に米切手を発行して資金調達した結果、米の受け渡しができなくなることもありました。
そこで、幕府は、蔵屋敷に存在する以上の米切手の発行を禁止します。それでも、各藩が、在庫以上の米切手を発行して金策をする状況は変わりません。でも、在庫がないのに米切手を発行したことが公になるのを嫌った各藩は、米切手と現物の米との交換に応じるため、家臣の俸給や他藩から借りた米を使うなどしてやりくりをしていました。
この幕府の規制は、かつて為替予約取引で要求されていた実需原則と同じようなものですね。
市場取引の公正を保つ米飛脚
大坂堂島米市場で形成された米の価格は、京都など各地での取引価格にもなりました。
しかし、現代のように電話もインターネットもない時代でしたから、すぐに取引価格を知ることはできません。
そこで、活躍したのが米飛脚でした。飛脚たちは、その日の相場を伝えるために大坂から各地に走ります。でも、人の足では、目的地に情報を届けるのに時間がかかりすぎてしまいます。
そこで、大坂の米相場をいち早く知りたいと考えた者は、手旗信号を使います。飛脚よりも早く米相場を知れば、例え相場が暴落しても、飛脚が来るまでは客に知られることはありません。だから、手旗信号によって暴落の知らせを受けた商人は、飛脚が到着するまでに高値で売り抜けることができました。
しかし、幕府は、この行為が公正ではないとし、米相場は米飛脚によってのみ伝えられるよう規制をかけました。
秩序を維持しようとする政府と自由な取引を善とする市場原理とのせめぎ合いは、すでに江戸時代から存在していました。
情報の伝達速度に差をつけても良いのかどうか、在庫以上の取引を容認しても良いのかどうか。
市場経済の原理なるものは、目的に適合する限りにおいて容認・保護されるべきものであり、それ自体として尊重されるべきものではない、というのが江戸幕府の立場であった。(299ページ)
江戸幕藩体制は、米によって成り立っていました。
米相場が高いほど、米で給料をもらっている武士の暮らしは良くなります。そのため、幕府としては、武士の暮らしを犠牲にした市場原理を認めることはできません。だからと言って、米相場が高止まりすると、民衆の生活が苦しくなります。
江戸幕府は、幕藩体制の秩序を維持できる範囲でしか市場原理を認めることができなかったのでしょう。
マスクやコンサートチケットの転売に規制をかける政府の考えも、その根底には、社会の秩序維持という目的があるはずです。
- 作者:高槻 泰郎
- 発売日: 2018/07/19
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