ウェブ1丁目図書館

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雅と死が同居した平安京

京都は、日本国内の都市の中でも風雅なイメージが強いです。

一方で、歴史的に見ると京都は、多くの人々が無残な死を遂げた都市でもあります。

雅に思える文化でも、その背景を探ると死があり、死の積み重ねが京都を雅な街へと発展させてきたように思えます。

三条東殿や畜生塚は罪なき人々の死の現場

歴史の長い京都では、道の片隅に多くの石碑が置かれています。それら石碑の中には、過去の残虐な事件を今に伝えているものもあります。

例えば、ビジネス街として繁栄している烏丸御池にある三条東殿の石碑は、ここが平治の乱の悲劇の舞台だったことを示しています。

考古学・都市史学を専門とする山田邦和さんの著書「京都 知られざる歴史探検 下」では、下京、洛西、洛南・伏見、乙訓・宇治、南山城、丹波・丹後の史跡がたくさん紹介されており、三条東殿の石碑の写真も掲載されています。

三条東殿は、平安時代末期の後白河上皇の院御所でした。

保元の乱の後の処遇に不満を持った源義朝は、藤原信頼とともにクーデターを起こし、後白河上皇を一本御書所に幽閉します。しかし、源義朝は都に舞い戻った平清盛との戦に敗れ、落ちのびる途中で命を落としています。

これを平治の乱といいますが、この戦で三条東殿は炎上します。上皇に仕えていた女房達は、炎の熱さから逃げるため、次々に井戸の中に飛び込み圧死しました。


鴨川に架かる三条大橋

この近くでも、安土桃山時代に悲劇が起こっています。

女性や幼い子供など約40人が、豊臣秀吉の命により斬首されたのです。

斬首されたのは、秀吉の甥である秀次の縁者です。秀次は、謀反を計画したとして秀吉に捕えられ高野山に追放されました。そして、秀次は自害したのですが、その罪は、秀次の縁者にもおよびます。

三条河原に連れ出された女性や子供たちは、次々に首をはねられ、穴の中に投げ入れられていきました。そして、その上には巨大なピラミッド状の塚が築かれ、人々は悪逆塚や畜生塚と呼ぶようになりました。

現在、畜生塚があった場所には瑞泉寺というお寺が建っています。近くに高瀬川を開いた角倉了以が、崩壊していた畜生塚に気づき、秀次一族の菩提を弔うために創建したものです。

京都の疫神対策

京都は政治の舞台であったことから、政争で敗れた多くの人々が無残な死を遂げました。また、庶民も疫病が原因で命を落とすことが多く、街のあちこちに死体が散乱していたこともあります。

その昔、大江山から出てきた酒呑童子は、都で略奪した女性の肉を食らっていました。

これに憂慮した天皇は、源頼光に鬼退治を命じます。頼光は、渡辺綱坂田金時碓井貞光卜部季武らを率いて山伏に変装して大江山に向かい、酒呑童子を退治しました。

酒呑童子の正体は、山賊や落武者などと言われていますが、平安京に猛威をふるった伝染病の神を擬人化したものだと考えられています。

この話から、平安時代の都の人々が疫病の脅威に恐れていたことがうかがえます。

そういった事情もあり、都の鬼門の方角には多くの寺社が創建され、疫神が都に入って来ないようにしていました。

京都市の南に鎮座する石清水八幡宮もまた、都の裏鬼門を守る神社として創建されました。毎年1月18日に当宮で催される青山祭は、道饗祭(みちあえさい)とも呼ばれ、疫神を饗応することで都への侵入をあきらめさせていたそうです。

離宮と賽の河原が結びついた西院

京都には、西院という地名があります。

「さいいん」と読むこともあれば「さい」と読むこともあります。阪急電車西院駅は「さいいん」と読み、京福電車の西院駅は「さい」と読みます。

西院には、かつて淳和天皇離宮である淳和院が営まれており、西院(さいいん)と別称されていました。

また、平安京の南方に佐比里(さいがり)という場所があり、そこに向かう道を道祖(さい)大路と呼んでいました。佐比里は庶民の葬地の桂川の河原であり、これが賽の河原です。

そして、道祖大路は、淳和院の西側を通っていたことから西院の発音が「さいいん」から「さい」になまったものだと言われています。

雅な離宮と死を結びつけるのもまた京都の特徴なのでしょう。


京都には、多くの寺社があり、それら建物には風情を感じます。

しかし、建物が風雅であるほど、多くの人々が疫病に悩まされ、戦乱に巻き込まれたことを物語っているとも言えそうです。