世の中には、科学のような非科学もあれば、非科学のような科学もあります。
両者の線引きは、なかなか難しく、素人が判断するには難しい事象がいくつもあります。これまで、科学的に正しいとされていたことが、ある時、まちがいがわかることはありますし、その逆も起こることがあります。
天動説はまちがいで地動説が正しいといった証明がなされても、我々の生活に与える影響はほとんどありません。しかし、病気に効果がある薬と信じて服用していたのに後から何の効果もないことが証明されると困りものです。だから、科学と非科学を分けるものは何かを知っておくことは、科学の素人にとっても大切なことです。
科学の二面性
科学が社会に受け入れられるためには、わかりやすく説明することが必要になります。現代の日本社会では、科学的に説明できることを望む人が多いように見えますから、全体的に科学が受け入れられた社会と言えそうです。
神戸大学大学院農学研究科教授の中屋敷均さんの著書『科学と非科学』では、社会が科学に求めている最も重要なことの一つとして、「説明すること」を挙げています。
科学には、「社会に『神託』を下す装置としての『科学』と、この世の法則や真実を追究する<科学>」があります。おそらく、多くの人が求めているのは前者の科学なのではないでしょうか。小難しいことは、どうでも良いから、それが科学的に正しいかどうかを手っ取り早く教えて欲しいと。
しかし、このような姿勢で、科学と接すると、科学と非科学の境界線がどこにあるのかを意識しなくなり、立派な肩書を持っている人が言っていることは科学的に正しいと判断するようになります。それは、肩書を信じているだけで、科学的な態度とは言えません。
科学的な正しさとは、「繰り返し起こることは法則化できる」という考え方と「法則化できたことは、他の現象にも応用できる」という考え方の2つによって支えられています。リンゴが何度も木から落ちたら、そこには何かしらの法則があると考えられます。そして、その法則をミカンや梨にも当てはめることができれば、他の現象にも応用できたと言えます。このようにして、ある現象を説明することが、「この世の法則や真実を追究する<科学>」です。
社会が求める科学には確率がつきまとう
社会が求める科学は、多くの場合、神託としての科学です。
例えば、放射線被曝だと、どの程度の放射線を受けると健康被害が出るかを素人が判断することはできません。そこで、科学者が、年間これくらいの被曝であれば、健康被害は発生しないとの神託を下し、人々に安心感を与えるというのが、神託としての科学です。
しかし、その神託は、絶対的な安全性を保証するものではありません。その理由は、全ての危険性を完全に調べ切ることはできないからです。多くの場面を想定し、様々な実験を行っても、あらゆる場面を想定することはできません。
試験管の中に細菌と薬を入れ、細菌が全滅したなら、その薬は当該細菌をやっつける効果があると考えられます。そして、何度やっても、同じ結果が出るのであれば、その効果は確実です。そこで、その細菌に感染した患者に薬を処方するわけですが、どうしたことか、体調が回復しない患者がいます。
そのようなことが起こるのは、あらゆる場面を想定した実験を行うことが不可能だからです。薬の効果が出ない患者には、体質的に薬の効果を弱める何かがあるのかもしれません。その体質的な何かをすべて見つけ出すことはできませんから、どうしても、薬の効果は60%とか70%とか、確率で評価することになります。
このような確率を使って社会を納得させる知恵を現代人は「科学的」と言っています。そこには、100%は存在しないので、ゼロリスクを求めることはできません。
修正できるから科学は発展する
ゼロリスクは存在しませんが、科学によって不確実性を減少させていくことはできます。そのために必要となるのは、「科学的な姿勢」です。科学的な姿勢とは以下のことです。
科学的な姿勢とは、根拠となる事象の情報がオープンにされており、誰もが再現性に関する検証ができること、また、自由に批判・反論が可能であるといった特徴を持っている。(75ページ)
情報が隠されており、批判も反論も許されない状況では、何が問題で、どうすればその問題を解決できるのかを検証することはできません。これは科学だけでなく、ありとあらゆる物事の発展にとって重要なことです。
反対に物事の発展を阻害する原因となり得るのが、権威主義です。権威者の言っていることは正しいと鵜呑みにする社会では、情報をオープンにする必要性もなければ、批判・反論を受け入れる土壌も生まれません。
権威主義は、あらゆる分野に存在しています。社会が、権威者の神託を求めているからです。わからないことを一から実験していたのでは、どれだけ多くの時間がかかるかわかりません。その時間を短縮するために人々は、権威者の神託を求めるわけです。しかし、社会が、神託に頼り過ぎると、権威者がミスを犯したときに批判も反論もできなくなり、その分野の発展を阻害することになります。
本書では、科学的な知識は、個人の創造性と社会による是認との相互作用から生まれると述べられています。探求者個人の努力だけでは、科学は科学として認められません。社会を構成する人々が、科学的な姿勢を持たなければ、どんなにすばらしい発明も埋もれてしまいます。
権威者の神託は、時間を短縮し、より良い選択肢を提供してくれます。しかし、神託は、時にまちがうことがあります。その時、科学的な姿勢を持っていれば、まちがいが正され、科学はさらに発展するのです。