ウェブ1丁目図書館

ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。なお、当ブログはアフィリエイト広告を利用しています。

事実は変わらないけども歴史は変わる

過去に起こった事実は絶対に変わりません。

だから、歴史の教科書に書かれている内容も変わらないはずなのですが、日本史の教科書は、数十年前から内容が変わっています。時代によって、何を教えるべきかという価値観は変わりますから、それに応じて教科書の記述内容が変わることは考えられます。

しかし、事実とされていた内容についても、記述が変わることがあります。新たな発見により、書き換える必要が生じたことが理由です。だから、過去の事実は変わらないといっても、事実だと思い込んでいたことが違っていた場合には知識を更新する必要があります。

また、昔の人が流したデマを事実だと思い込むこともありますから、今、事実と思っていることは、将来、書き換わるかもしれません。その逆もあり得ます。

疑うことがなかった歴史が変わる

歴史研究家で歴史作家の河合敦さんの著書『逆転した日本史』では、昔の日本史の教科書の内容が、現在、どのように変わっているのかを教えてくれます。現代の中学生や高校生が習う日本史の内容は、20世紀の終わり頃の内容とは異なる部分があり、中には、常識と思えるような内容までも書き換えられています。

例えば、日本で最初に造られた貨幣。

和同開珎と習い、そのまま覚えている人が多いと思いますが、中には、「いや、その知識はもう古く、今では富本銭が日本最初の貨幣だ」と得意に語る人もいることでしょう。しかし、富本銭も、今では日本最初の貨幣ではなく、無文銀銭が最も古い貨幣だとされるようになっています。

日本書紀にも、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」と記述されていることから、銅銭である富本銭より前に銀銭が存在していたことがうかがえます。その銀銭こそが無文銀銭だと考えられています。

また、鎌倉新仏教についても、解釈が変化しつつあります。鎌倉新仏教は、浄土宗、浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗の6つの宗派を指し、これらが旧仏教界の改革を促したというのが通説です。ところが、教科書によっては、このような解説になっておらず、中世の仏教界の勢力は、東大寺興福寺といった旧仏教が中心勢力だったと記述しています。そして、鎌倉新仏教は、戦国時代から江戸時代初期に独立の宗派として公認され、後世に強い影響力を持ったものだと解説しています。

鎌倉時代に誕生した宗派でも、真言律宗のように衰退したものは、鎌倉新仏教には入りません。

戦国時代は応仁の乱より前に始まった

戦国時代の幕開けは、1467年の応仁の乱だとされていますが、今、この通説が崩れつつあります。

それより13年前の1454年(享徳3年)に起こった享徳の乱が、戦国時代の幕開けだとする説が台頭しています。

室町幕府は、京都に足利尊氏が開きましたが、以前の幕府があった鎌倉も重要な拠点だったことから、ここに鎌倉府を置き、彼の3男の基氏の家系が代々、鎌倉公方に就くことにしました。そして、鎌倉公方を助ける関東管領には上杉氏があたることになります。

しかし、鎌倉府は、次第に力を持つようになり、足利持氏鎌倉公方となったときに幕府と対立するようになります。その態度を関東管領の上杉憲実が諫めますが、それに怒った足利持氏は、上杉憲実を攻め滅ぼそうとします。ところが、上杉憲実が6代将軍の足利義教に救援を求めたことで、足利持氏は自害に追い込まれました。これを永享の乱といいます。

永享の乱で鎌倉府は滅亡しましたが、後に足利持氏の子の成氏が幕府と和解し、鎌倉府が復活します。

その後も、足利成氏派の武士と上杉氏の家臣団の関係は悪く、幕府の仲裁で仲直りしたものの、足利成氏が上杉憲実の子の憲忠を暗殺したことで、鎌倉公方関東管領の関係が悪化します。勢いに乗った足利成氏は、上杉氏を攻め滅ぼしますが、幕府は彼の行為を放置することができず、大軍を派遣して鎮圧にかかります。これに対して、足利成氏も、彼に味方する関東の武士とともに戦い、下総国古河に御所を定め、古河公方と名乗るようになります。

一方、幕府も、足利政知鎌倉公方とすることにしましたが、足利成氏の勢力によって鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越を拠点とし、堀越公方と呼ばれるようになります。

この鎌倉府の分裂に関東管領家の上杉氏の分裂も加わり、関東の抗争が絶えなくなり、やがて戦国時代に突入していったと考えられるようになりました。これが享徳の乱です。

真実のようなデマ

本書では、興味深い日本史のデマについても紹介されています。

幕末のヒーロー坂本龍馬は、司馬遼太郎さんの小説『竜馬がゆく』で主人公として描かれ、それまで無名だったのが、一気に有名になったといわれています。しかし、これはデマです。

1943年の国定教科書坂本龍馬の名が登場しますし、1957年の教科書にも、その名が見られます、『竜馬がゆく』はそれより後に出版されていますから、その時には、すでに坂本龍馬について学校で習っていたことになります。また、昭和初期に出版された子母澤寛の『新選組始末記』にも坂本龍馬は登場しますから、戦前からそれなりに知名度があったはずです。

しかし、その坂本龍馬も、日本史の教科書から消える可能性があります。歴史の大きな流れで見れば、坂本龍馬は裏方ですから、教科書に載せるべき歴史上の人物ではないと判断されているのでしょう。

デマと言えば、ネット上の興味深いデマも本書で取り上げられています。

先ほど紹介した応仁の乱享徳の乱といったように「乱」の文字が入る歴史用語があります。また、本能寺の変のように「変」の文字が入る歴史用語もあります。

「乱」と「変」の違いは何か。それについて、ネット上では、成功したクーデターが「変」で失敗したクーデターが「乱」だとの情報があります。日本史マニアなら、すぐに嘘だとわかる情報ですね。

鹿ケ谷の変、正中の変慶安の変禁門の変は、すべて失敗に終わっています。一方、源平合戦で知られる治承寿永の乱は、源頼政の挙兵が発端とすれば、壇ノ浦の戦いで源氏が平家を滅ぼしているので、成功したことになります。

河合さんは、「乱」と「変」の違いを調べたけども、結局わからなかったとのこと。僕が学校で習った時には、「変」は事件という意味だと教わった記憶があります。慶安の変は慶安事件ともいいますし、池田屋事件寺田屋事件は、池田屋の変、寺田屋の変ということもあります。

一方、「乱」は「変」よりも規模が大きなものだとも教わった記憶があります。確かに応仁の乱や治承寿永の乱と比較すると、鹿ケ谷の変も本能寺の変も規模が小さいです。でも、禁門の変は、割と大きな事件でしたから「乱」といっても良さそうですが、「変」になっています。

やはり、「乱」と「変」については、明確な違いは見出せそうになく、当時の人や後世の人が、そう名付けた言葉がそのまま使われているだけなのかもしれません。


事実は絶対に変わらないけども、歴史は変わる。

そこに歴史のおもしろさがあるのでしょう。