ウェブ1丁目図書館

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もしも梶原景時が源頼朝を見逃さなかったら鎌倉幕府は成立しなかったか

「歴史に、もしもはない」

よく聞く言葉です。過ぎ去った出来事について、後から何を言ったところで変えようがありません。だから、歴史を見て、あの時、あのようになっていれば、その後の歴史は変わっていただろうと言っても仕方ありません。

でも、過去のことを何度も振り返って、「もしも」を考えるのは、誰にでもあることです。果たして、それは、本当に無意味なことなのでしょうか。

源頼朝は伊豆に流罪になっていなかったら挙兵できなかった

日本中世政治史を専門とする本郷和人さんの著書『歴史のIF(もしも)』は、鎌倉時代から関ヶ原の戦いまでの歴史を解説しています。タイトル通り、ただ歴史を解説するだけでなく、歴史の節目になる事件について「もしも」を考察し、その「もしも」が起こっていたら歴史はどう変わっていたかを自らの視点で紹介しています。

鎌倉時代は、源頼朝が、鎌倉に幕府を開いたところから始まります。

頼朝が、鎌倉幕府を開けたのは、平治の乱平清盛に敗れ、伊豆に島流しになったからです。ここで、もしも、頼朝が、京都より西の国に島流しになっていたら、どうなっていたでしょうか。

後に以仁王が平家追討の令旨を諸国の源氏に発しますが、それは、西国に流罪になっていたとしても、頼朝のもとに届いていたでしょう。だから、頼朝は、伊豆に流されなくても挙兵できたかに思えます。しかし、平治の乱の後、頼朝の弟の稀義は、西国に流罪となりましたが、挙兵することはできませんでした。西国は、平清盛支配下にあり、あっという間に稀義は平家に味方する武士たちによって殺されてしまったからです。

このように考えると、頼朝が西国に流されていれば、稀義と同じ運命をたどっていたに違いありません。頼朝が、幕府を開くためには、平治の乱後、東国に流罪となる必要があったのです。

では、なぜ、頼朝は、伊豆に流されたのでしょうか。当時の関東は、西国と比較すると、とんでもない田舎でした。平清盛は、源氏の嫡男である頼朝を伊豆に流してしまえば、もう何もできないと判断したのでしょう。

石橋山の戦いで頼朝が戦死していたら

さて、頼朝は、以仁王の令旨が届き、北条などの在地領主たちの力を借りて挙兵しました。

しかし、頼朝は、石橋山の戦いで敗れてしまいました。

頼朝は身を隠しますが、平家に味方する武士たちの捜索が始まり、ついにその居場所を発見されます。ところが、頼朝を発見した梶原景時は、彼を見逃しました。もしも、この時、梶原景時が頼朝を見逃さなければ鎌倉幕府は成立していなかったでしょう。

しかし、東国の在地領主たちは、自分たちの領地の保全に重大な関心があり、朝廷に対して自分たちの権利を認めさせたいとの気持ちが強かったので、例え、頼朝が石橋山で戦死していても、頼朝に代わる源氏の誰かを立てて朝廷と交渉しただろうと本郷さんは考えています。

だから、鎌倉幕府の成立時期よりも遅れることになっただろうけども、頼朝の死に関わらず、武家政権は成立していたのではないかと考えられます。

北条氏の権力拡大

東国の在地領主たちの力を借りて、頼朝は鎌倉幕府を開くことに成功しました。

在地領主たちも、これで一安心というところですが、頼朝の死後、幕府内の御家人たちが争い出します。

幕府成立時に力を持っていたの御家人は、比企氏でした。頼朝の乳母であった比企尼は、比企氏の出で、頼朝が伊豆に流され貧乏な暮らしをしていた時に経済的な支援をしてきました。その功績から、比企氏は、幕府成立時に大きな力を持つことになります。

2代将軍の源頼家は、比企氏で育ち、比企氏の娘と結婚しています。この比企氏を邪魔だと思っていたのが、北条氏です。

北条氏は、頼朝の命を救った梶原景時を難癖をつけて討った後、比企氏のトップである比企能員を法事に誘って騙し討ちし、比企氏も滅ぼしました。その後も、北条氏は、汚いやり口で、有力御家人を次々に滅ぼし鎌倉幕府の中心的存在になっていきます。

幕府と朝廷との関係

北条氏は、武士が政治の中心になるべきだと考えていましたが、3代将軍の源実朝後鳥羽上皇の後ろ盾を得て、朝廷と仲良くしていました。

これが気に食わなかった北条氏は、実朝を暗殺し、承久の乱後、後鳥羽上皇らを島流しにし、武家政権を盤石のものとします。その後も、幕府内には、なおも朝廷と仲良くすべきだとする主張がありましたが、霜月騒動により、その一派は滅亡します。

一方で、その頃、朝廷も持明院統大覚寺統に割れ、それぞれが交互に皇位を継承することになっていました。そんな中、大覚寺統後宇多上皇は、世襲ではなく有能な人材を登用し、幕府と手を取り合って政治を行わなければならないと考えていました。そして、上皇の皇子であった後二条天皇が即位し、大覚寺統のリーダーになりました。

これで、朝廷と幕府が仲良くなるかに思われたのですが、後二条天皇が若くして崩御してしまいます。上皇は、仕方なく後二条天皇の皇子である邦良親王を次の天皇に据えようと考えますが、持明院統は、これを機に皇位を取りに行こうとします。そこで、上皇は、邦良親王が大きくなるための中継ぎとして、後二条天皇の弟の後醍醐天皇を即位させたのですが、これが朝廷にとっての不幸の始まりでした。

鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争乱へ

後醍醐天皇は、権力欲の塊で、何度も幕府を倒そうと画策します。

そして、念願かなって鎌倉幕府は滅亡し、天皇中心の建武の新政が始まったのですが、短期間で瓦解してしまいます。倒幕で後醍醐天皇に味方した足利尊氏が反旗を翻したのです。

足利尊氏は、持明院統から天皇を擁立し、北朝として後醍醐天皇南朝と争い続けます。この南北朝の争乱により、朝廷の力は弱くなり、その後も、武士中心の政治が長く続くことになります。

ここで、もしも、後二条天皇が若くして崩御しなければどうなっていたでしょうか。

本郷さんは、後宇多上皇が掲げた「朝廷は幕府と上手くやって、民をかわいがらなければならない」「有能な貴族を抜擢して政治をやらなければならない」との信念が守られていただろうと述べます。そして、北条氏の独裁が続く鎌倉幕府は、いずれ倒れ、武士の中から朝廷と手を取り合って政治を行っていこうと考える者たちが出てきたに違いないだろうとも述べています。

そうであれば、南北朝の争乱も起こらず、世の中はもっと平和だったかもしれません。


歴史に「もしも」はありません。

だからと言って、「もしも」を考えないのなら、歴史を知る意義はないように思います。歴史に「もしも」を考えるのは、これからの人類が進むべき方向を模索するきっかけになるはずです。同じ過ちを繰り返さないためには、歴史のもしもを考える必要があるでしょう。