現代社会は、もはやインターネットなしでは機能しなくなっています。
もしも、今、インターネットがこの世から無くなったら、経済活動に大きな負の影響を与えるでしょう。金融取引はもちろんのこと、企業間取引、企業と消費者との間の商取引など、インターネットが深く関わっています。
このような社会では、いずれインターネットは誰でも利用できる基本的人権としなければならなくなるでしょう。
談合社会から弾かれても再挑戦できるのがウェブの世界
脳科学者の茂木健一郎さんとシリコンバレーでインターネットと深く関わってきた梅田望夫さんの対談集「フューチャリスト宣言」の中で、茂木さんは、ウェブ社会の到来は負け犬たちのチャンスだと述べています。
これまでの日本社会は、おそらくアメリカやイギリスなどの先進国でも、集団の中でうまくやってきた人たちが成功する社会でした。茂木さんはこういった社会を談合だと述べていますが、インターネットの出現によって、談合社会でうまくやっていけなかった個人が、ウェブの世界で新たな生き方をできるようになりました。
そう、談合社会の負け犬が、ウェブ社会で成功し生きていく術を身につけれる世の中になったのです。
おもしろいことに梅田さんは、リアルで満足度の高い人ほどネットに関心を持たないと述べています。また、リアルで満足度が低い人ほどネットに関心を持っているとも述べています。
これは非常に興味深いことです。
インターネットが存在しなかった世界では、権力者が次々と領土を広げていき、多くの部下を得て、たくさんの人々を支配していきました。ユートピアを見つければ、そこに進出して我が領土としていったわけですね。
ところが、談合社会で権力を握った人は、負け犬が逃げ込んだウェブ社会にまで進出してこないのです。だから、談合社会での負け犬は、ウェブというユートピアで邪魔されることなく生きていけるようになりました。
インターネット接続はセーフティネットだ
安倍総理は、以前、再チャレンジできる社会という言葉をよく口にされていました。
もしも、再チャレンジできる社会を実現するのであれば、誰もがインターネットに接続できる環境を提供する必要があるでしょう。
現代社会は、価値観が多様化しており、全ての日本国民が談合社会で適合していくことは不可能です。いまや談合社会に適合できなかった人たちは、心の病を患った病人という扱いを受けることだってあります。しかし、彼らは本当に病気なのでしょうか?
例えば、群れで生活する野生動物を捕まえて、動物園の檻の中で1頭で生活させれば、ストレスでこれまでとは違った行動をし始めることでしょう。でも、動物の群れの中に返してあげれば、再び、以前と同じように本来の生活をし始めるはずです。
今、心の病と診断されている人たちの中にも、同じような状況の人がいるのではないでしょうか?
彼らが本来の生活を取り戻すためには、談合社会でのみ生きていくことを強いるのではなく、ウェブ社会への入り口を提示することが必要なのかもしれません。すなわち、談合社会で挫折した人が再挑戦できるようにするには、誰でも、インターネットに接続できる環境を整えることであり、それが数あるセーフティネットのひとつとなるのです。
人間はすべて違う
ロングテールという言葉が使われるようになって久しいですね。
ロングテールは、ネット通販大手のアマゾンの売上の大部分が、少数の売れ筋商品ではなく、1年に1個か2個しか売れないような大多数の不人気商品で構成されているというものです。グラフにすると左端が最も高くなり、右に延々と長くゼロすれすれのグラフが続いくことから、まるで尻尾の長い恐竜のように見えます。
梅田さんは、「フューチャリスト宣言」の中で、ロングテールについて興味深いことを述べています。
最近、改めて気付いたのは、ロングテールというのは深いなということです。というのは、人間のロングテールって何かと考えたら、「すべての人は違う」ということなんです。ロングテールってグラフを適当に書くと、ななめの部分、恐竜の同体の部分があるような気がしてしまいますが、本当に計算してグラフを書くと、実際はこの部分はほとんどなくて、縦軸と横軸の直角(L字型)に近い。結局、縦軸を選びますか、横軸を選びますかという議論になる。この横軸に六0億人が並んでいる。人間のロングテールと考えると。
(141ページ)
談合社会では、たくさんいる組織の構成員の1人でしかなかったのが、ウェブ社会ではロングテールの横軸となり個性を発揮し始めるのです。
それに気づいた個人は、あちら側の世界に自分の居場所を見つけ、そして新たな生活を始めます。もちろん、こちら側の世界に帰ってくることもありますが、彼らは再び談合社会の構成員に戻ることを選ばないでしょう。
逃げ続けるだけの負け犬ではない
ウェブ社会に逃げ込んだ個人は、いつまでも負け犬ではありません。
ウェブ社会に入り込んだ当初は、談合社会にコテンパンに叩きのめされていたかもしれません。そして、自信を失い、心の病という診断を受けたかもしれません。ところが、彼らは、ウェブ社会で自分の居場所を見つけた時、大きな成長をしているのです。
人間の成長を分ける大きな分水嶺は、偶有性をどう受け入れるかということだと思う。成長する能力のある人というのは、自分にとって痛いこと、つらいこともきちんと受け入れて、それを乗り越えていける人だと思うんですよ。ネットってまったく無制約にいろいろなものが入ってくる場だから、偶有性に身をさらす上で、これ以上の場はない。ふつうのマスメディアだと何重にも守られていますから。
(143~144ページ)
これは茂木さんが述べていることです。
ブログでもウェブサイトでも、インターネット上に開設すれば、様々な試練が待ち受けています。批判、誹謗中傷、そういった経験は、これまでなら一部の公人しか経験できない試練でした。ところが、ウェブ社会の到来によって、誰もが、ブログなりウェブサイトなりを運営すれば、このような試練にさらされることになるので、これまで一部の人しか体験できなかったことを経験して成長できるようになったのです。
政治家がテレビやラジオで発言したことに対して集中砲火を浴びるのと同じように、ブログを運営していれば、たくさんの批判コメントという手榴弾を不特定多数の閲覧者から投げ込まれるのです。
ウェブ社会で、そういう特別な経験をした個人が、再び談合社会に戻ってきた時、あちら側の世界とこちら側の世界の垣根が取り払われるのかもしれません。
現代は、リアルはリアル、ウェブはウェブと切り離されているところがあります。リアルの仕事とウェブの仕事の両方をこなしているという人は少なく、リアルならリアル、ウェブならウェブの仕事を専門にしている人が多いですね。
リアルでも、ウェブでも、どちらでも仕事をしているという人が多数派になった時、世界はどうなっているのでしょうか?