ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

京都人の曖昧な言葉を使う性格は争いを避けるため

「京都」という言葉には、日本らしさや雅を感じます。どちらかと言うと良い印象を受けます。

ところが、「京都人」という言葉には、いけず、曖昧といった悪い印象を持っている人が多いようで、京都人は性格が悪いと思われがちです。直接的な言い方をしないので、まどろっこしいとか、何を考えているのか伝わりにくいから実は腹黒いのではないかとか、とにかく京都人に対する他府県の印象は、お世辞にも良いとは言えません。

しかし、この京都人の性格は、実は余計な争いを作り出さない平和的なものなのです。

戦乱から学んだ京都人の智恵

京都人の曖昧な言葉づかいが、他府県の人たちに悪い印象を与えていることは間違いないでしょう。「良い」とは言わず「悪くはない」と言ったり、「悪い」とは言わず「良くはない」と言ったりするのが京都人の言葉づかいの特徴です。

f:id:daumaneko:20160207110112j:plain
(写真提供:京都桜photo

生粋の京都人でエッセイストの柏井壽さんは、著書の「極みの京都」の中で、「京言葉は多面的であって、一方向だけから見たのでは誤解を生むことが少なくない」と述べています。そして、京都人の曖昧な言葉遣いは、京都の長い歴史と関係があると考えています。

それは京都という土地が、幾度となく、戦の現場となってきたことと無関係ではない。度重なる戦に翻弄された都人は、敵味方の区別すらつかない時代が多くあり、それゆえ相手に、敵とも見方ともどちらとも取れるような、曖昧な表現を多用するようになったのである。結果、京言葉は深遠なイメージにとらえられ、ある種の神秘性を持った言葉として、畏怖され、時には揶揄されてきたのである。
(22ページ)

直接的な言葉づかいは、時として、敵味方をはっきりと区別することになります。

京都のように何度も戦乱を経験している土地では、この敵味方をはっきりと区別する態度は命取りとなります。本能寺の変のように一夜にして政権が交代してしまうことが、京都の歴史の中では何度もありました。そのたびに旧政権に好意的な態度を示していた京都人は、新政権によって命を奪われていきました。

そういった経験から生み出されたのが、自分の態度をはっきりとさせない京都人特有の言い回しなのです。

真実のように語られる「ぶぶ漬け」神話

京都人の家に長居していて、家主から「ぶぶ漬けでも食べませんか」と言われたら、帰宅を促されている合図だと聞いたことがある方も多いでしょう。

ぶぶ漬けは、京言葉で「お茶漬け」のことです。

「お茶漬けを食べませんか」と誘われたり、何も言ってないのにお茶漬けが出てきたりしたときは、「早く帰れ」と催促されているのだと。しかし、この「ぶぶ漬け」神話は京都人からすると不思議で仕方がありません。

京都の半可通ほどこの説を信じているようだが、実はこれはまったくの誤解。長年京都で暮らしていて、そんな現場に出会ったこともなければ、話にすら聞いたことがない。私の生家はかなり来客が多かったが、祖父母も両親も、客の辞去を促す言い訳に「お茶漬け」を使ったことなど一度たりともない。
(35ページ)

そうです。京都人は、そもそもお客さんにお茶漬けを出して帰宅を促すことはないのです。でも、京都人の「良し悪し」をはっきりと言わない性格が、他府県の人たちに深読みさせてしまい、「ぶぶ漬けでもどうですか」と言われたら、そろそろ帰らないと迷惑になると思わせているのかもしれません。


京都市山科区毘沙門堂門跡というお寺があります。

門跡(もんぜき)とは、皇室関係者が代々住職を勤めてきたお寺のことで、毘沙門堂でもそういった方々が住職を勤めてきました。そのため、政治的に重要な相談をしたい人が毘沙門堂に住職を訪ねることがあったのですが、この時、ある部屋に通されると住職と面会することができません。

何時間待っても、誰も部屋に来ません。しかし、勘の良い人なら、襖絵を見ただけで、この部屋にいても面会できないとわかります。襖絵には、梅の木が描かれています。梅と言えば、枝にウグイスがいるのが定番です。しかし、毘沙門堂のその部屋では、梅の枝にウグイス以外の鳥が描かれています。

明らかに梅の木と組み合わせる鳥が違っています。

ここで勘の良い人は「木に鳥が合っていない」ことから、これはお寺側の「取り(鳥)合わない」という意図だと察するのですが、勘の鈍い人は、いつまでも襖絵を眺めながら住職を待ち続けることになります。

なお、毘沙門堂を訪ねれば、今でも、この襖絵を見ることができます。


このような話を聞くと、京都人は言葉ではっきりと伝えないから、こちらが京都人の意図を察しなければならないと思うでしょう。そして、同じような話を何度も聞くうちにお茶漬けを出されただけで、「これは何か裏があるに違いない」と思い、誰かが帰宅を促す合図だと深読みしたのかもしれません。

京都人は誰も傷つけない

何度も戦乱に巻き込まれてきた京都人は、自分が傷つくことを嫌います。だから、いつのまにか他人も傷つけないように言葉づかいを曖昧にしてきたのです。

京都のお店では満席だった場合、女将が「ほんまに悪いことでしたなぁ。おおきに。また、よろしゅうおたの申します」と言ってお客さんを断ることがあります。

一体、女将は何が悪いと言っているのでしょうか?

これがまさに京都人の言葉遣いなのだ。言葉だけ聞いていると、いかにも店側が恐縮して「悪い」ことをした、と謝っているようにみえて、しかし、ひとことも「自分が悪い」とは言っていない。ただ漠然と「悪い」と言っているのは、実は「運が悪い」という言葉が濃厚なのだ。或いは店と客の「相性が悪い」という意も含んでいる。
(26ページ)

この言葉にこそ京都人の本質が表れているのです。

予約もせずにお店に来たお客さんを責めるのではなく、来店した時間帯が悪かっただけ、それは運が悪かっただけですよ、そう言って断ることで変な争いが起こらないようにしているわけです。

京都人は決断が速い

京都にのんびりとした印象を感じる人もいるでしょうが、政治決断が非常に速いという特徴があります。

神社やお寺など、古い建物が残っていることから、新しい物を採り入れないように思われがちですが、決してそのようなことはありません。京都タワーも、京都駅ビルも、建設計画が持ち上がった時には反対意見が出ました。しかし、それらがうやむやのまま中止されることはあまりなく、ほとんどの計画が実行に移されます。

なぜ、京都は、計画をすぐに実行に移せるのでしょうか?

それは、京都が観光で成り立っている街だからです。政界も財界も宗教界も、意見が対立したとしても、最終的に観光という視点で見た時、税収が増え、経済効果が高まり、拝観者が増えれば、景観問題も吹っ飛びます。それが、京都の決断力の速さにつながっているのです。

最近では、四条通の歩道の拡幅工事が市民の反対を無視して実行されました。四条通は、河原町から烏丸の間の歩道が非常に混雑していたのですが、拡幅工事によって歩行者が歩きやすくなりました。

車道を狭くしてでも歩道を広げたのは、その方が観光客が歩き安いといった理由があることは容易に想像がつきます。そして、四条通が歩きやすくなったことで今まで以上に観光客が増えるでしょうから、京都市の税収、商店やデパートの売上、寺社の収益、全てが伸びるはずです。

京都人は何を考えているのかわからないと言われますが、観光という視点から見れば、これほどわかりやすい人たちはいません。


京都人が、混雑する四条通の歩道を歩かず、阪急電車河原町駅から烏丸駅までの地下道を歩くのは、観光客に対するちょっとした優しさなのですが、それも他府県の人たちには、あまり気づかれていません。

もちろん、歩道が込み合って歩けないという理由もあるのですが。

極みの京都 (光文社知恵の森文庫)

極みの京都 (光文社知恵の森文庫)