京都には、古都らしい雅なイメージがあります。そして、歴史ある都市ということからからか、古臭く閉鎖的なイメージも併せ持っています。
でも、京都の街を歩けば、普通にビルが建っていますし、車も走っており、チェーン店も多いので、他の都市と大きく変わっているところは意外と少ないと感じます。
とは言え、細かいところを見ていくと、謎に思うところは、やっぱりありますね。やたらと一方通行が多かったり、地名がわかりづらかったり。そういったところが、京都らしさを人々に感じさせているのかもしれません。
日本初が多い
京都は、長い歴史がある都市ですから、「日本で初めて」といったものが多いです。
数百年も前のことなら、京都が日本初になるのは当たり前ですが、意外と最近のことでも、日本初だったりします。
都市文化史、生活文化史、情報文化史を専門とする森谷剋久さんの著書「京都『地理・地名・地図』の謎」では、京都の街に隠された謎が多く紹介されており、京都が日本初となったものについても、いくつか掲載されています。
路面電車
日本で初めて路面電車が走ったのは京都です。
東京と新橋間に走ったのが初めてではないかと思う方もいるでしょうが、それは明治5年(1872年)の鉄道開業です。路面電車は、明治28年に京都の伏見・油掛までの6.7kmを走ったのが日本初です。
京都で初めて路面電車が走った理由は、第4回内国勧業博覧会が京都で行われたからです。明治28年は、ちょうど平安遷都1100年に当たる年だったため、京都で内国勧業博覧会が行われることが決まり、路面電車もそれに合わせて走らせることになりました。
内国勧業博覧会は、4月でしたが、路面電車の開業は2月1日でした。この日は、初午の日だったため、伏見稲荷大社の参拝客が電車を利用すると当て込んだのだそうです。意外とちゃっかりしていますね。
水力発電所
商業用の水力発電所も、京都が日本初でした。
琵琶湖疏水の流れを利用した水力発電は、蹴上発電所で行われました。
蹴上発電所の完成は明治24年です。実は、その3年前に宮城県で水力発電が行われていましたが、こちらは仙台市の紡績会社が自家用で使っていたものです。
商業用として、市内に電力を供給したのは、京都が初めてなんですね。
不思議な地名も多い
簡単に読めない地名や変わった地名が多いのも、京都の特徴の一つです。
地名に上ル、下ル、入ルが付いているのに戸惑う人も多いのではないでしょうか。「上ル」は北に行くこと、「下ル」は南に行くこと。そして、「入ル」は、西入ルや東入ルといったように使い、西に行くことや東に行くことを表します。
京都の街は、縦横に道が通る碁盤の目をしており、通りの名に上ル、下ル、入ルを組み合わせて場所を指定してきた歴史があります。
例えば、「寺町通御池上ル」であれば、南北の寺町通と東西の御池通の交差点を北に行ったところを指します。
天使突抜
上ル、下ル、入ルも変わっていますが、天使突抜(てんしつきぬけ)という地名も変わっています。
地名の由来となったのは、豊臣秀吉のある行いからです。
西洞院通松原下ルに五条天神宮という神社があります。この神社は、天使の社とも呼ばれているのですが、豊臣秀吉が京都を大改造した際に境内の真ん中に南北を貫く通りを造りました。
このような秀吉の行いにあきれ果て、また恐れをなし、当時の京都の人々は、新しい通りの両側にできた町に皮肉を込めて、天使突抜と名付けました。
現在も、天使突抜とう地名は残っており、1丁目から4丁目まであります。
錦小路
錦小路(にしきのこうじ)という地名は、京都らしい雅な響きがあります。外国人旅行者に大人気の錦市場があるのは、この錦小路です。
錦小路は、元は別の名だったのですが、綾小路(あやのこうじ)と対になるよう、平安時代の天皇の命により名付けられました。
錦小路の元の名は、糞小路(くそこうじ)でした。
清徳聖が、藤原師輔の邸に参上する際、その後ろから餓鬼、犬、狼、カラス、虎などの畜生が数万もついて行ったのですが、それらの姿は人々には見えません。
清徳聖に、米10石分の飯が出されると、餓鬼や畜生が全て食べてしまいます。清徳聖が藤原師輔の邸を出て、現在の錦小路にやって来ると、餓鬼や畜生が糞をまき散らしたことから、人々が糞小路と呼ぶようになったのだとか。
実際のところは、具足小路(ぐそくこうじ)がなまって糞小路になったようです。
一口
一口。普通に読めば、「ひとくち」ですが、こう書いて「いもあらい」と読みます。
京都には、桂川、宇治川、木津川が流れています。現在の久世郡久御山町の東一口(ひがしいもあらい)は、これら3つの川に囲まれ、出入り口が西側の1ヶ所しかありません。そのため、一口の漢字が当てられるようになったと言われています。
その昔、東一口では、疫病が村に入って来ないように3つの川の合流点に稲荷を祀りました。かつて、疫病の疱瘡は、「いも」と言われており、それがこの地に入って来ないように稲荷を祀って邪気を洗ったところから、「一口(いもあらい)」という地名になったと伝えられています。
一口稲荷神社は、関東でも評判となり、室町時代に太田道灌(おおたどうかん)の娘が疱瘡にかかったとき、一口稲荷神社を神田に勧請(かんじょう)して祀ったとされています。そこで、神社近くの坂は一口坂(いもあらいざか)と呼ばれるようになりました。
京都の一口稲荷神社は、現在は残っていませんが、太田道灌が勧請した稲荷神社は、神田駿河台に移転して太田姫稲荷神社として存続しています。
京都は古臭いイメージがありますが、意外と新しいものを受け入れている都市でもあります。地名の変更が行われてきた歴史を見ても、それほど閉鎖的ではないように思えますね。