幕末の長州藩士・吉田松陰は、松下村塾を開き藩士たちの教育にあたりました。子供から大人まで、様々な塾生が通う松下村塾は寺子屋のようでもあり大学のようなものでもありました。
吉田松陰が、塾の中で最も目をかけていたのが久坂玄瑞(くさかげんずい)でした。松陰は、久坂玄瑞が入塾する前からその秀才ぶりを知っており、彼が松下村塾に入ることを知った時、大変喜んだそうです。
松下村塾の塾生で久坂玄瑞と共に忘れてはならないのが高杉晋作です。松陰は、久坂玄瑞とは違った形で高杉晋作の教育にあたります。
義弟にするほど期待した久坂玄瑞
司馬遼太郎さんの時代小説「世に棲む日日」の2巻では、吉田松陰が久坂玄瑞の才能に心底惚れ込んでいた描写があります。
久坂玄瑞がまだ高校生くらいの年ごろだった時、松陰は彼を呼び出し丁重な態度で自分の義弟になって欲しいと頼みます。すなわち自分の妹のお文を久坂玄瑞に嫁がせようとしたのです。松陰の久坂玄瑞に対する惚れ込みようは、師弟の関係を超えており、友人や同志として傾倒するほど敬愛していました。
高杉晋作の自尊心をくすぐる吉田松陰の一言
高杉晋作は、久坂玄瑞より歳がひとつ上でした。高杉晋作が松下村塾に入塾するきっかけとなったのは久坂玄瑞の紹介で、吉田松陰はあっさりと彼の入塾を許可します。
そして、松陰は高杉晋作から詩文集を受け取り、熱心にそれを読み始めました。松陰は会った時から彼の才能を見抜いていましたが、「久坂君のほうが、すぐれています」と言います。この時、高杉晋作は露骨に不服従の色を浮かべ、それを見た松陰は、やはり尋常ではない人物だと確信しました。
―奇士が二人になった。
と、松陰はおもった。
「松下村塾の目的は、奇士のくるのを待って、自分(松陰)のわからずやな面を磨くにある」
と、かねて友人たちに洩らしている自分の塾の目的にみごとにかなった人物が、久坂のほかにいま一人ふえたという思いが、松陰をひそかに興奮させている。(107ページ)
しかし、高杉晋作のような自負心の強い人物は、いったん傷つけて破らなければ素質が開花しない、そう思った松陰は、彼の才能を引き出すためにわざと久坂玄瑞に対する競争心をあおったのです。
高杉晋作は、松陰に向かって自分のどこが劣っているのかを尋ねます。
すると、松陰は、彼が書いた文章を分析し、丁寧に欠点を指摘しました。この時、高杉晋作は、欠点を言われているのに不思議と聞くほどに昂奮を覚えます。
自分がどういう資質、性格、あるいは可能性をもった人間であるかという自分の像は、自分自身ではふつう、ついにわからない。かといって他人にきいてもわかるはずのないことであったが、高杉は、自分像というものをほとんど芸術的なばかりのみごとさで、松陰によってとりだされてしまったのである。(108ページ)
最近では、受験勉強のように競争させる教育は良くないという風潮があります。
確かに過酷な競争を強いるのは、達成感よりも疲労感の方が強く、途中で挫折してしまう人が多くなりそうです。しかしながら、まったく競争のない社会では、個々人が持っている才能が開花せず埋もれてしまうことだってあります。
僕は、誰にでも競争心があると思っています。だから、競争心をあおることで人は成長すると思っています。しかし、あまりに力の違う人と比較されると自尊心が傷つき、やる気を失ってしまうこともあるでしょう。
だから、教育者は、競争心をあおるとき、その人の実力に合った他人と比較しなければなりません。そのさじ加減がうまい人が、優れた教育者なのではないでしょうか?
革命は三代にして成る
司馬遼太郎さんの小説の中では、よく革命は三代にして成るといったことが述べられています。
革命の初動期は詩人的な予言者が現れ、世に追い詰められて必ず非業の死を遂げます。中期には、卓抜な行動家が現れ奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとりますが、またその多くも死んでいきます。その後に先人の果実を採って彼らの理想を容赦なく捨て、処理可能な形で革命を成し遂げるのが三代目の仕事です。
これを明治維新に当てはめると、吉田松陰が初代、高杉晋作が二代目、伊藤博文が三代目となります。
吉田松陰は安政の大獄によって非業の死を遂げます。彼は、死ぬ前に高杉晋作に10年待つように言います。松陰がそう言い残したのは、高杉晋作を革命の第二期の人たらしめようとしたのだと、司馬遼太郎さんは述べています。

- 作者:司馬 遼太郎
- 発売日: 2003/03/10
- メディア: 文庫