明治維新の実現を語るうえで、欠かすことができないのが吉田松陰の存在でしょう。
もしも、吉田松陰が長州藩で生まれなければ明治維新は違ったものになっていたかもしれません。彼は、高杉晋作や久坂玄瑞(くさかげんずい)など、幕末の勤王の志士たちに大きな思想的影響を与えます。そして、長州を中心とした勤王の志士たちが、やがて不動の幕藩体制を壊す原動力になりました。
侍とは公につくすもの
吉田松陰が登場する歴史小説はいくつかあります。その中でも、司馬遼太郎さんの「世に棲む日日」では、松陰が幼いころにどのような教育を受けて来たのかについて詳しく書かれています。もちろん小説なので、そこにはフィクションも含まれているでしょうが。
松陰が最初に教育を受けたのは、父の杉百合之助(すぎゆりのすけ)からでした。その後、玉木文之進から教育を受けるのですが、この玉木文之進が松陰にスパルタ教育を行います。
玉木文之進は、兵学のほか、経書、歴史、馬術、剣術を教えましたが、そのような学問や技術よりも「侍とはなにか」を幼い松陰の体にたたき込んでいきます。文之進のいう侍とは、「公のためにつくすもの」であるということ以外になく、松陰から極端に私情を排していきます。
ある時、文之進が畑仕事をしているとき、松陰はあぜに腰をおろして本をひらいていました。文之進がそらんじてゆく後を松陰がひとりで朗読していきます。すると、文之進は急に怒りをあらわにし松陰を殴り飛ばしました。
その理由は、現代人から見ればとても些細なこと。書物のひらき方がぞんざいであった、手をまっすぐ伸ばして書物を読まなければならないのに肘が緩んでいたなど。ある時には、崖に向かって突き飛ばされ気絶することもありました。
読書中に頬のかゆさをかいただけでも殴る文之進。
「痒みは私。掻くことは私の満足。それをゆるせば長じて人の世に出たとき私利私欲をはかる人間になる。だからなぐるのだ」(20ページ)
大器は晩く成る
玉木文之進の教育を受けた後も松陰は、藩から教育を施され大人になっていきました。
そして、18歳になった時、藩の学制改革についての意見書を書き上げます。
「学校をおこすということは、単に教育機関をつくるということではない。これを軸に国家(藩)の風儀を一変させるという覚悟をもってやらねばならぬ。一技一芸の末をとやかく教えるというだけでは、学校興隆の目的にそわない」
「文武は一体であるべきであり、これを二となすべきではない。万世に至るまでこのことは不変であるべきである」
「少壮の者にはあまり世間の仕事をやらせてはならない。父母の事情がゆるすかぎり、勉学専一にはげませるべきである」
(34ページ)
松陰が掲げた教育の理想は、知識や技術の習得に重きを置くものではなく、考え方や思想を形成していくというものだったのでしょう。「世間の仕事」というのは、今でいうアルバイトのようなことで、中学生や高校生にそういった仕事をさせるべきではなく、勉強に集中させた方が立派な大人になるということでしょうね。松陰は、「大器をつくるにはいそぐべからざること」とも述べていますので、子供の時に時間をかけて教育を施すことが重要だと考えていたに違いありません。
松陰の教育の考え方は現代にも通じるものがあるように思います。
何かと批判を浴びてきた「ゆとり教育」ですが、これは、松陰がいう「大器をつくるにはいそぐべからざること」という考え方に近いものがあるのではないでしょうか?ゆとり世代なんて呼ばれている彼ら彼女たちですが、人間性の面では、詰め込み教育を受けてきた世代よりも上のような気がしますね。
とにかくマナーがいいですよ、ゆとり世代と呼ばれている方たちは。こういうのもなんですが、団塊の世代と呼ばれている人たちには、マナーが悪い人が多いです。電車の中で足を開いて座っているのは、団塊の世代や詰め込み世代の人ばかり。ゆとり世代でも、そういう人はいるのでしょうが、数はそれほど多くないように思います。
ただ、「大器をつくるにはいそぐべからざること」というのは、言い方を変えると大人になってから社会のことを学びだすということになり、世間知らずの大人になってしまう危険もあります。
吉田松陰が安政の大獄で処刑されたのも、この辺りに理由があったように感じてなりません。もっとしたたかであれば長生きしていたかもしれませんが、それは、玉木文之進が施してきたスパルタ教育で私情を排することを体にしみこまされた松陰には、できない生き方だったのでしょう。
- 作者:司馬 遼太郎
- 発売日: 2003/03/10
- メディア: 文庫