日本は、その歴史の中で一度も他国の植民地になったことがありません。
島国だから、他国の侵略を受けにくかったということもあるでしょう。しかし、19世紀に入ると、欧米列強が軍艦で大海原を走り回り、島国を次々と植民地支配していったことを考えると、必ずしも島国だから侵略されないとは言い切れません。
日本も江戸時代末期には、米英仏蘭の四カ国の植民地になりそうだったのですが、3人組の活躍によってそれを回避することができました。
目の前の現実を受け入れるのが島国の人間
司馬遼太郎さんの歴史小説「世に棲む日日」の3巻では、長州藩が米英仏蘭の四カ国連合艦隊の攻撃を受け、藩領の一部が植民地にされるかもしれないという危機的場面が描かれています。
この時、長州藩を列強の侵略から救ったのが、高杉晋作、井上聞多(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)の3人組でした。
この3人組は、つい1年ちょっと前に英国領事館を焼き払い、外国人を日本から追い出せと叫んでいたのですが、わずかな期間でその考え方を改めます。高杉晋作は、その前に上海に行って西洋諸国の力を目の当たりにしていましたが、井上聞多と伊藤俊輔は、その時には西洋文明の巨大さを全く知りませんでした。だから、2人は日本人の力を見せつければ外国人なんて日本から追い出せるに違いないと思い込んでいたのです。
ところが、井上も伊藤もいざヨーロッパに行って、西洋文明を目の当たりにすると、すぐに彼らを相手に戦うことが無謀だということを悟ります。
井上聞多は、それをその目でみた。見ればすぐ本質がわかるという聡明さが島国の人間にはそなわっており、井上や伊藤にはそういう種類での代表的日本人とでもいうべきするどい直観力があった。
「見た」
ということは、大陸の人間にとってはなんでもないことであっても、この島国のひとびとにとってはそのものが衝撃になり、エネルギーになるのである。(162ページ)
ヨーロッパから帰国
井上聞多と伊藤俊輔は、四カ国連合艦隊が長州藩を攻めるというニュースを知ると、すぐさま帰国を決断します。
どのように長州藩が列強諸国と戦っても勝ち目がないことをすぐに藩の首脳部に伝えるためです。しかし、井上聞多の説得にもかかわらず、長州藩は四カ国艦隊と開戦します。
結果は言うまでもなく長州藩の完敗。
降参とは言わなかった高杉晋作
戦いに負けた長州藩は、四カ国連合艦隊に謝罪をしなければなりません。
この時に長州藩の代表としてイギリスのクーパーと交渉したのが高杉晋作でした。
高杉晋作は、クーパーとの交渉に出向いた時、謝罪状を持参しませんでした。当然、クーパーは謝罪がなければ交渉できないと言います。しかし、高杉晋作は、長州藩は戦いに負けたわけではなく、外国艦船が下関海峡を通過しても差し支えないと言いに来ただけだと反論します。
貴艦隊の陸戦兵力はわずか二千や三千にすぎぬではないか、わが長州藩はわずか防長二カ国であるけれども、二十万や三十万の兵隊は動員できる。本気で内陸戦をやれば貴国のほうが負けるのだ、われわれは講和する、しかし降参するのではないということは右のとおりである、と朗々とひびく語調でいった。(197ページ)
さすがのクーパーも高杉晋作の言葉には苦笑い。しかし、どこからどう見ても長州藩の負けは事実です。だから、クーパーは、3百万ドルの賠償金を払うように要求してきました。
これに対して高杉晋作は、外国船を下関から砲撃したのは幕府の命に従ったまでだから、賠償金を請求するなら幕府にしてもらいたいと言い返します。事実、高杉晋作の言うように外国人を日本から追い払うという方針は幕府と朝廷によって決定されたものでした。
クーパーは、高杉晋作の主張を受け入れ、賠償金の請求を幕府にすることにします。しかし、長州藩に対しては、他に彦島の租借も要求しました。
列強に支配された上海を実際に見てきた高杉晋作は、そのようなことを認めたら、長州藩も列強の植民地になると直感したのでしょう。「それはならぬ」とはっきりと断り、さらに「高天ガ原よりはじまる。はじめ国常立命・・・」と日本の起こりを神話から説き始め、クーパーを煙に巻いてしまいました。
もしも、この時、高杉晋作が交渉にあたっていなければ長州藩はイギリスの植民地になっていたかもしれません。後に伊藤博文がこの時の高杉晋作のことを以下のように語っています。
「あのときもし高杉がうやむやにしてしまわなかったなら、この彦島は香港になり、下関は九龍島になっていたであろう。おもえば高杉というのは奇妙な男であった」
(236ページ)
また、司馬遼太郎さんは、日本人を知ろうと思えば幕末の長州藩を細かく知る必要があると述べています。
この藩―つまり一藩をあげて思想団体になってしまったようなこの藩―が、髪も大童の狂気と活動を示してくれたおかげで、日本人とはなにものであるかということを知るための歴史的大実験をおこなうことができた。日本史における長州藩の役割は、その大実験であったといっていい(145ページ)
その後の明治維新から第2次世界大戦までの80年間の日本の性格は、幕末の長州藩と重なる部分が多いのではないでしょうか?
- 作者:司馬 遼太郎
- 発売日: 2003/04/10
- メディア: 文庫