ウェブ1丁目図書館

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本を再読すると多種多様な考え方を認められるようになる

一度読んだことのある本を二度三度と読み返したことはあるでしょうか。

僕は、本を何度も読み返すことはそれほどありません。知らべものをしている時、知識が不完全な場合には何度も読み返しますが、これは勉強や仕事が目的であることが多いですね。

それでも、たまに過去に読んだ物語を再び読むことがあります。同じ本を読んでも結末がわかっているのだからおもしろくないと、多くの人が思うでしょう。でも、二度目三度目と同じ本を読んでいると、初めて読んだ時には気付かなかったことに気付いたり、同じ内容であっても読む年齢によって感じ方が異なっていたりするものです。

若い時に読んだ本ほど読み返さない

作家の五木寛之さんの著書「友よ。」は、Aさん、Bさんという形で友人に手紙を書くような感じのエッセイ集です。この本に収録されているTさんに向けて書かれた「一度読む本は三度読む」の中で、早い時期に名作を読み過ぎた不幸について語られている部分があります。

人間というやつは、かつて一度読んだことのある本を、二度あらためて読み返すことは、なかなかしないものなんです。
読んだ、という事実があるだけにそうなのです。ですから早熟な中学生が名作といわれる小説を何冊も読破してしまうと、大人になってからも特別な機会でもなければ、さらにもう一度じっくり読み返したりはしないことが多いんですね。
しかし、小説も土地も人間も、こちらの成熟度や精神的な幅の変化によって、それぞれいろんな顔を見せてくれるものです。
(152ページ)

五木さんは、よく旅をされており、過去に訪れた土地にも再び旅行することがあるそうです。そして、以前には気付かなかった良さに気付いたり、昔とは全く違う印象を受けることもあるのだとか。

中学生の時に修学旅行で訪れた土地を30歳になってから再び訪れたとします。すると、若い時とは景色の見え方が異なり以前とは違った感情が湧きあがってくる、といった経験をすることはよくあります。

本を再読する場合も旅と同じで、若い時に読んでいても大人になって読み返すと、以前には気付かなかったことに気付きます。それは、人生経験が豊かになったからかもしれませんし、知識が身についたからかもしれません。また、大人になって無感情になりつつあるから、若い時に読んだ時ほど感動しなくなっていることもあるでしょう。

十代で。そして二十代で。
さらに三十代、四十代でもう一度。
五十歳をすぎればほぼ行きどまりです。そこでもう一度読めば充分でしょう。
そのつど、びっくりするような作品の顔が見えてくるはずです。つまり、古典でも現代作品でも、固定された名作なんてないと思うのです。あるのは自分と作品の、そのときそのときの関係です。その揺れ動くなかに作品の価値がある、と思うのです。
(154~155ページ)

経験と擦りこみ

同じ本でも、最初に読んだ時と二度目や三度目に読んだ時で感じ方が異なるのは、人生経験によって意識に何かが擦りこまれるからかもしれません。

五木さんが、同書の中で食糧生産者のYさんに語りかける「日本雑穀党宣言」では、人の意識が何者かによって擦りこみを受けているのではないかと考えさせられます。

例えば、主食はコメ、と、頭からきめてかかってはいませんか。
コメは日本人の知恵の結晶です。おそらく二千年来、この国の人々が生んだ文明のなかでもっとも洗練されたものが米作、およびコメを中心とする食生活でしょう。
そのことはまったく疑う余地はありません。
(中略)
コメが定着する以前に、私たち日本人はなにを主食としていたか。
狩猟、とまではいかなかったでしょう。おそらく採集が生活の土台だったにちがいありません。
木の実、そして草の根、貝、などが何千年も日本先住民を支えてきたのです。
(194~195ページ)

現代日本人は、コメを主食としています。食事にはご飯があって当たり前。その当たり前の食生活が、日本人の精神的支柱までもがコメだと言わんばかりです。五木さんは、「コメを日本人の精神的統一の核と考える思想には、どこか絶対主義的国家観のにおいがする」と述べています。

イモでも、アワでも、ヒエでも何を主食としようが構わないじゃないか、同じ日本人であっても様々な食物を食べていいじゃないか。

たまにコメ以外のものを、例えばアワでもムギでも、食べた時、きっと今までの食事とは違った感覚がわきあがってくるはずです。

単一とか、純一とか、そんなものが、どこがいいんでしょうね。
文化は常に混交からしか生まれてきません。
明治の日本がいきいきしていたのも、西洋の衝撃が日本と混交したからです。
日本を守り続けてもダメだったでしょう。また、すべて西洋に切りかえても、なにも生まれなかったはずです。
(201~202ページ)

人間は年齢とともに様々な経験をしていきます。

しかし、同時に人間は経験の中から取捨選択し、自分に都合の良い部分を採り入れ、それ以外を切り捨てようとします。経験することで、「やっぱり日本人はこうでないとダメだ」と考えるようになり、いつの間にか誰もが似たり寄ったりの考え方を持つようになるのかもしれません。

様々な経験をすることで、多種多様な考え方や見方があることに気付きます。しかし、その反対に多種多様な考え方や見方を否定しようとする感情も生まれてきます。これは、様々なことを一度だけ経験するから起こる感情なのではないでしょうか。

一度だけ納豆を食べて、おいしくなかったから二度と食べない。

そういう人は、納豆を否定するでしょう。でも、二度三度と納豆を食べてみれば、おいしくなかったとしても、この味や臭いも意外とありかもしれないと思うようになるかもしれません。

一つの考え方に凝り固まらないためには、同じことを何度か経験することも大切でしょう。そういう意味では、本の再読が手っ取り早そうですね。

友よ。 (幻冬舎文庫)

友よ。 (幻冬舎文庫)