浄土真宗では、善人よりも悪人が先に救われるとする悪人正機説の考え方があります。
善い行いをしている人よりも、悪事を働いている人を阿弥陀如来は先に救済するのなら、世の中、悪いことをしたもの勝ちになってしまいそうです。他人の迷惑を省みず私利私欲に走った人ほど極楽への特急列車に優先的に乗れるのなら、誰も善い行いをしなくなるのではないかと疑問に感じます。
歎異抄を読んでみる
浄土真宗の開祖親鸞聖人の弟子である唯円が著したとされる歎異抄(たんにしょう)は、「親鸞の語録を本とし、それによって親鸞の死後に現れた異説を嘆きつつ、親鸞の正意を伝えようとしたもの」と岩波文庫版の最初に書かれています。
その歎異抄で、悪人が救われると書いているのが以下の部分です。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいわく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるにたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるゝことあるべからざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もともと往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。
(45~46ページ)
最初の部分では、善人が往生できるのだから悪人が往生できないはずはないと書かれています。これを読むと、善人も悪人も平等に往生できると考えられそうです。
しかし、後半の「他力をたのみたてまつる悪人、もともと往生の正因なり」の部分は、金子大栄さんの解説では以下のようになっています。
それ故に自力作善の人は、弥陀の本願(の正機)ではなく、他力をたのみたてまつる悪人は、最も往生の正因(を身につけしもの)である。
(46ページ)
これを読むと、確かに悪人の方が善人よりも救われるとなってますね。
不思議に思えますが、同じページの解説に「しかしまた悪人は悪行を離れることのできぬ悲しみがあり」と書かれているのを読むと、何となく納得できます。
猟師のように殺生を生業とする人は、悪い行いをしているけども、その仕事をしなければ生きていけません。そういう人に阿弥陀如来は先に救いの手を差し伸べるのだというのが、悪人正機説の一般的な解説です。医師が重症患者から先に治療するのと同じで、阿弥陀如来も悪人から先に救ってくれるのだと。
進んで悪事を働くとどうなる?
生きていくためにはどうしても殺生をしなければならない人が救われるのは納得できました。
では、進んで悪事を働いた人は、どうなるのでしょうか?
そのかみ邪見におちたるひとあて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやう*1にあしざまなることのきこゑさふらひしとき御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからずとあそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり。またく悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。
(67ページ)
進んで悪事をすることを「薬があるからと言って毒を進んで飲むべきではない」といさめています。
やっぱり、悪人は救われないんだと早合点してしまいそうですが、最後の部分「またく悪は往生のさはりたるべしとにはあらず」を読むと、悪は往生の妨げにはならないと解釈できます。
我々は、その日の仕事の他に何もできません。また、仕事のためにいかなる振る舞いもするものです。「そのあさましい身なればこそ大悲の願心も感じられることである」との解説を読むと、自分の意思ではどうすることもできないことが世の中にはあり、好ましくないことだとわかっていても悪い行いをしなければならない状況にジレンマを感じながら生きている人々を阿弥陀如来は往生へと導いてくれるのだと思えます。
変化の激しい時代だと、自力で物事を解決できないことは起こるもの。時代の流れに逆らうことができないのなら、その流れに乗って生きるしかありません。例え不本意な仕事でも、それをしなければ生きていけないのなら、顧客にとって不利になる商品を売ることもあるでしょう。
悪人正機説は、そういう意味のように感じられますが、どうなのでしょうか。
*1:2回目の「やう」は、原文では縦書きでひらがなの「く」のような繰り返し文字となってますが、横書きで変換できなかったので、「やうやう」としています。