倒幕派が力を付けつつあり、幕府の権威が次第に衰え始めている中、重大事件が起きました。
慶応2年(1866年)12月25日に幕府寄りの立場にあった孝明天皇が崩御したのです。
幕府にとっても、倒幕派にとっても、自らの主張に大義名分を持たせるためには、天皇の意思に沿うこと、つまり勤王のために働かなければならないというのが当時の考え方でした。天皇が幕府寄りの立場を変えない限り、倒幕派が大義名分を得ることができない状況での崩御は、両者の立場を大きく変える可能性を持っていました。
孝明天皇暗殺説
ところが、幕府にとってきわどい時期の崩御だったため、孝明天皇は暗殺されたのではないかと噂されました。
ノンフィクション作家の大野芳さんの著書「天皇の暗号」では、孝明天皇の御医を勤めた伊良子光順(いらこみつおさ)の天脈拝診日記の内容が紹介されています。天脈とは天皇の脈のこと。すわなち、ここでは孝明天皇を指します。
孝明天皇が疱瘡を患っていたのは間違いなさそうです。天皇の容体は12月20日には回復期に入っており、26日には回復するのではないかと医師団は考えていました。しかし、25日に容態が変わり、天皇は崩御しました。
天皇の不可解な崩御については、暗殺されたのではないかという噂が立ちます。
暗殺説が最初に書かれたのは、英国領事館で通訳をしていたアーネスト・サトウの「A Diplomat in Japan(日本における一外交官)」とされています。アーネスト・サトウが孝明天皇の崩御を知ったのは慶応3年1月のようで、毒殺されたと聞いたのはそれから数年後のようです。
さらに孝明天皇暗殺説は、思いもよらないところで出てきます。
明治42年(1909年)10月26日に伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺されました。安重根は、逮捕され裁判が行われたのですが、その時、彼は伊藤博文暗殺の理由を複数列挙します。そして、「孝明天皇を暗殺した」と言いかけたところで、傍聴人の退廷が命じられました。
安重根は、アーネスト・サトウが本を書く前に孝明天皇暗殺の噂を知っていたことになります。しかも、その実行犯が伊藤博文だと。
明治天皇は長州藩士?
孝明天皇が仮に暗殺され、その実行犯が伊藤博文だったとすると、暗殺の理由はなんだったのでしょうか?
孝明天皇が幕府寄りの立場にあって、倒幕を企てる長州藩からすると邪魔だったというのが、最もあり得そうな理由です。孝明天皇の後に即位する明治天皇はまだ幼かったので、公卿の岩倉具視らと協力すれば、倒幕が天皇の意思だと噂を流すことはできたでしょう。
しかし、「天皇の暗号」では、もっと興味深いことが書かれています。
孝明天皇は、南北朝時代の北朝系の天皇です。もちろん明治天皇も北朝の系統です。当時の勤王の志士たちは、一種の太平記マニアで、南朝こそが正統であり、我こそが天子を助ける楠正成になるのだと思っていました。勤王の志士全員が楠正成になりたかったのかどうかはわかりませんが、幕末は南朝こそが正統だと誰もが思っていました。
南朝こそが正統とするなら、北朝系の天皇から南朝系の天皇に戻さなければならない。
幸い、長州藩には大室寅之祐(おおむろとらのすけ)という南朝の末裔がいたので、孝明天皇の次に大室寅之助を即位させれば正統である南朝系の天皇に戻すことができます。そして、孝明天皇の崩御の後、次に即位するはずの睦仁親王(のちの明治天皇)と大室寅之祐をすりかえ、皇位を南朝に戻す計画を倒幕派が練っていたというのです。
大逆事件と南北朝正閏論
明治43年に起こった大逆事件は、幸徳秋水ら無政府主義者が計画した天皇暗殺未遂事件でした。
逮捕された幸徳秋水は、大審院で判事の審問を受けた際、今の天皇は南朝から皇位を奪い取った北朝系だから、暗殺しても問題ないといった旨の発言をしています。しかし、どちらが正統かを議論する以前に北朝も南朝も同じ皇室の血を引いているのですから、南朝が正統だから北朝系の天皇を暗殺しても問題ないとするのは、勤王でもなんでもないでしょう。
明治になって起こった大逆事件は、幕末に勤王の志士たちが歴史を知らずに自分が楠正成になることを夢想していた結果なのかもしれません。
南北朝のどちらが正当かの南北朝正閏論は、明治天皇が南朝を正統としたことで決着がつきました。
北朝系の明治天皇が南朝を正統としたのは、やっぱり幕末に大室寅之祐が睦仁親王とすり替わったからなのかと邪推したくもなりますが、問題を大きくしないための明治天皇のお心遣いだったのでしょう。