幕末の京都で活躍した新選組は、幕府が14代将軍徳川家茂の上洛に際して結成された組織です。
当時の京都では、勤王の志士と呼ばれる浪士たちが暗殺を繰り返しており、上洛した新撰組はその取締りにあたります。新選組が結成されてからの約5年間に殺害された勤王の志士たちは26人。意外と少なく感じます。
そう感じるのは、新選組内部で粛清された隊士が40人もいたからでしょう。新選組は、結成されてから常に内部抗争に明け暮れていたと言っても過言ではありません。
伊東甲子太郎の入隊
新選組の名を世に広めたのは、元治元年(1864年)6月の池田屋事件でした。
その池田屋事件から数ヶ月後、伊東甲子太郎が仲間とともに入隊します。
彼が入隊した目的は、新選組の乗っ取りだったと噂されています。もともと伊東甲子太郎は、尊王攘夷の志が篤く、どちらかというと幕府側の新選組とは思想面で相容れないものがあったと思われます。それなのに新選組に入隊したのですから、何か目的があったに違いないだろうと。
幕末史研究家の菊池明さんの著書「新選組 粛清の組織論」では、伊東甲子太郎や山南敬助などの隊士が、どのような理由で新選組内部で粛清されたのかが、多くの文献をもとに解説されています。ちなみに山南敬助は、「やまなみけいすけ」と呼ばれていますが、「さんなんけいすけ」が正しい呼び方だったのではないかと考えられるようです。
伊東甲子太郎が新選組に入るきっかけとなったのは、彼の門人の藤堂平助の誘いからです。すでに新選組に入隊していた藤堂平助は、新隊士募集のために江戸に下り、伊東甲子太郎を説いて入隊させます。
頭が良く、尊王攘夷の志が篤く、そして、後に新選組から分離した伊東甲子太郎でしたから、すでに入隊する前から何か策をもっていたに違いない。そのように想像すると、伊東甲子太郎は、新選組を乗っ取る目的で入隊したのではないかと思えてきます。
新選組からの分離
しかし、伊東甲子太郎が、新選組を乗っ取ることを目的に入隊したとは考えにくい面があります。
彼は、局長の近藤勇とともに2度、長州藩を視察しています。長州藩は幕府の対立勢力でしたから、その時に長州藩に渡りを付けていたのではないかと思われがちですが、残っている記録からは、伊東甲子太郎と近藤勇は視察を終えた後、ともに帰京しているので、伊東甲子太郎が長州藩士と接触できた可能性は低そうです。
ただ、帰京後、伊東甲子太郎は、水口の城多薫と面談し、自分は尊王攘夷の志を貫徹するために新選組に入隊したのに近藤勇と土方歳三は親幕路線に傾倒していると不満を漏らし、新選組から分離すると述べているので、長州視察の際に何かあったのかもしれません。
新選組では、脱退を許さない掟となっていました。例え参謀に就任した伊東甲子太郎であっても、脱退を口にすれば処分されるのは間違いありません。そこで、「分離」としたのです。
伊東甲子太郎は、敵対する薩長に近づき、そこから情報を入手して新選組に流すつもりだと、近藤勇を説得します。近藤勇は、伊東甲子太郎の述べることを承知し、分離を認めました。
しかし、伊東甲子太郎は、薩長にも新選組の情報を流すと伝えていました。
分離後の伊東甲子太郎は、尊王攘夷のために働こうとします。でも、元新選組隊士の伊東甲子太郎は、薩長からなかなか信用されません。
そこで、伊東甲子太郎は考えます。近藤勇を暗殺すれば、薩長から信用されるはず。
伊東甲子太郎は、仲間に近藤勇の暗殺を慶応3年(1867年)11月22日に行うことを告げます。ところが、この計画は事前に近藤勇に漏れます。近藤勇は、伊東甲子太郎の分離時にスパイとして斎藤一を送り込んでいたので、その計画をすぐに知ることができたのです。
11月18日。
伊東甲子太郎は、1人で近藤勇の妾宅へ出かけます。目的は金策。
伊東甲子太郎の行動を後から溯っていくと、最初から分離を目的に新選組に入隊したように思えます。でも、入隊時から順に彼の行動を追っていくと、そうではなかったように見えます。
尊王攘夷のために働ける場を求めて新選組に入隊。しかし、当初、想像していた新選組と実際の新選組は違っていた。だから、尊王攘夷のために働くのであれば、新選組から離れなければならない。
それは、入社前に想像していた会社と入社して実際に働いてみた会社との間に乖離があり、転職を決めたというのと同じだったのでしょう。
しかし、元新選組隊士の経歴は、伊東甲子太郎の分離後の活動に負の影響を与えます。
彼が尊王攘夷のために働くのなら、薩長への手土産が必要となります。それが、近藤勇暗殺だったのでしょう。
「新選組 粛清の組織論」では、これまでの新選組の通説を覆す内容が多く解説されています。タイトル通り、新選組内部での粛清が中心で、隊士が粛清された本当の理由が何だったのか知りたい方は、興味深く読めることでしょう。