ウェブ1丁目図書館

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応仁の乱の勝者が誰かわからない

今からちょうど550年前の1467年に応仁の乱が起こりました。応仁の乱は、中世の古い体制が壊され戦国時代へと突入た大乱です。

室町幕府8代将軍の足利義政は、自らに子が生まれなかったことから弟の義視(よしみ)を次期将軍に据えることを決定しました。しかし、その後、義政に子供(義尚)が誕生します。弟と子のどちらを次期将軍にすべきか。その問題がこじれて応仁の乱に発展したというのが通説になっています。

畠山氏の内紛

日本中世史を専門とする呉座勇一さんの「応仁の乱」を読むと、大乱は、将軍継嗣問題だけが原因ではなかったとわかります。では、何が原因だったのかと聞かれても、よくわからないというのが読後の感想です。とりあえず、応仁の乱は、11年もの長きに渡る大乱ですから、単純な理由で起こったのではないことはわかりました。

応仁の乱の初戦は、御霊合戦と呼ばれるもので、現在の上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)で起こりました。戦ったのは、畠山義就(はたけやまよしひろ)と畠山政長です。

畠山氏では、義就が家督を相続することになったのですが、義就の母の身分が低かったこともあり、反発する家臣がいました。それら家臣が擁立したのが政長でした。この畠山氏の相続問題がこじれて御霊合戦が起こったのですが、両者だけで戦っていれば大きな戦乱とはならなかったかもしれません。

畠山氏は、細川氏と並んで管領職を勤めていたので、室町幕府にとっては重要な家柄です。なので、将軍の足利義政は揉め事が大きくならないことを願ったでしょうし、実際に中立を保ち、細川勝元にも仲の良い畠山政長に加勢しないように命じました。ところが、山名宗全斯波義廉が義就に加勢したことから政長は敗北、事態は大きくなっていったのです。

宗全の支援を受けた義就軍が政長軍を撃破すると、盟友の政長を見捨てた形となった細川勝元は武士としての面目を失った。勝元が東軍を組織して開戦を決断したのは、成身院光宣の進言もさることながら、戦争に訴えず宗全の横暴を認めては大名連合の盟主としての声望を失うという危機感に由来する。
(257ページ)

3つの派閥

応仁の乱の初戦が畠山氏の内紛によるものなら、将軍継嗣問題と応仁の乱は関係なさそうです。

しかし、御霊合戦の3年前に将軍継嗣問題からできた3つの派閥が応仁の乱と関わってきます。3つの派閥とは、伊勢貞親山名宗全細川勝元です。それぞれの将軍継嗣問題についての考え方は次の通りです。

  1. 伊勢貞親は、足利義政が続投し子の義尚が成長したら将軍職を譲る。
  2. 山名宗全は、足利義政が引退し弟の義視に将軍職を譲る。
  3. 細川勝元は、足利義政→義視→義尚の順で将軍職を継承する。


細川勝元の考え方は、足利義政の考え方と同じで幕府の既定路線の維持でした。

文正の政変で、足利義視山名宗全細川勝元の助けを借りたことで伊勢貞親は失脚します。そして、義視が事実上の将軍となったのですが、ここで細川勝元が義政の将軍続投を希望したことから、義視の後ろ盾となって権勢を振るおうとした山名宗全の思惑は外れる結果となりました。

伊勢貞親を追放した後は、細川勝元山名宗全とが政治構想の違いから激突し始めます。そして、畠山氏が相争った御霊合戦は、やがて細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍との争いへと発展するのでした。

西幕府

細川勝元率いる東軍は足利義視を担ぎ、西軍への総攻撃を決定します。一方の西軍も、大内政弘を味方に着けて反撃に出ます。

しかし、短期決戦を目論んだものの勝敗決せず、戦いはだらだらと続きます。この事態を何とかしようと思った足利義政は、和睦を進めるために義視を上洛させましたが、双方の仲は険悪となります。身の危険を感じた義視は、あろうことか西軍に走り幕府を模倣した政治機構を整えました。これを西幕府といいます。

2つの政治機構ができると、どっちが正義でどっちが悪なのかわかりません。東西両軍に多くの大名が加わり、戦いはますます収拾がつかなくなりました。後に東軍の細川勝元と西軍の山名宗全は、開戦の責任をとって引退します。しかし、両者の引退は戦いの終結にはいたりませんでした。

両人は開戦の責任を取る形で隠居した。これによって、山名と細川の間のわだかまりは解消されたと言える。だが両軍の首脳が表舞台を去ったことで、諸将を束ねる存在が失われた。宗全と勝元が真になすべきだったのは、諸将を説得して正式な講和交渉を始めることだったが、彼らはおのおの政権を投げ出す形で辞任してしまった。諸将は思い思いに戦闘を続け、大乱はだらだらと続いたのである。
(187ページ)

11年の長きに渡る応仁の乱は東軍の勝利で終了したようです。東軍が勝ったというよりも、紆余曲折あって西幕府がいつの間にか解散し、とりあえず戦いが終わりました。しかし、西軍に味方した畠山義就らは、降伏したわけではありません。

この後、戦国時代に突入したと学校では習うのですが、どうもそうではないようです。応仁の乱の中で義政の子の義尚が9代将軍となり、乱後も室町幕府の体制は維持されていました。室町幕府の権威が衰えてきたのは、1493年の明応の変以後で、ここから戦国時代へと突入します。


応仁の乱は、なぜ始まり、誰が勝ち、何を残したのか。これらを詳細に説明できる人は少ないと思います。

学校の先生も、あまりに複雑すぎて児童や生徒に応仁の乱を教えるのが難しいでしょう。

足利義視と義尚の将軍後継争いが激化したのが応仁の乱の原因で、現役の将軍足利義政が娯楽三昧の日々を送り政治が機能しなくなったことが大乱を長引かせた。そして、大乱は全国へと波及し、世は戦国時代に突入した。

小学校や中学校の教科書では、この程度にとどめないと応仁の乱の授業だけで3学期が終わりそうです。