地図上で南半球を見て、最も存在感があるのはオーストラリアでしょう。しかし、その存在感と比較して、オーストラリアのことを知っている日本人は少ないのではないでしょうか。
コアラやカンガルーがいる国。せいぜい、一世を風靡したエリマキトカゲが連想されるくらいかもしれません。他にオージービーフもありましたね。
日本人にとって、これくらいの認識しかないオーストラリアですが、実は近代以降の日本に大きな影響を与えてきた国でもあります。
イギリスの植民地となる
オーストラリアが世界史に登場するようになるのは、18世紀になってからです。それ以前から、人が住んではいましたが、世界の中のオーストラリアの位置づけが高まり始めたのは18世紀からです。
オーストラリア政治・外交、国際政治、アジア太平洋地域の国際関係を専門とする竹田いさみさんの著書『物語 オーストラリアの歴史』では、18世紀から現代にいたるまでのオーストラリアの歴史が簡潔にまとめられています。本書を読めば、日本がオーストラリアとどのようにかかわってきたかを概観できます。
オーストラリアは、1770年にイギリスのキャプテン・クックが発見しました。それにより、オーストラリアはイギリスが領有することになり、1788年にはアーサー・フィリップの第一船団が約1,000人を連れて移住しています。
イギリスからオーストラリアまでは非常に遠いのですが、ここを植民地としたのは、アメリカが独立したからです。当時のイギリスは、増大する人口を吸収するための植民地を必要としていましたが、アメリカが独立したことで、それが厳しくなっていました。そんな時にオーストラリアを発見したことから、新たな植民地として開発を進めることにしたのです。
白豪主義
イギリスの植民地となったオーストラリアは、白人を構成員とするイギリス系社会の建設を進めます。このようなオーストラリアの事情から、その政策は白豪主義と呼ばれるようになります。白豪主義は、「白人のためのオーストラリア」という意味であり、それを可能としたのが1901年に制定された移住制限法でした。
白豪主義は、現代では、人種差別の代名詞として批判されていますが、当時のオーストラリアは、中国などのアジア系外国人労働者が急速に増えていたことが社会問題化しており、移民を制限しなければならない状況にありました。
一方で、移住制限法は、奴隷制の廃止に貢献していました。当時のオーストラリアは、アメリカを意識して国家建設をしていました。しかし、アメリカは奴隷制で失敗をしていたことから、オーストラリアは、同じ轍を踏まないように奴隷制の廃止に動きます。ここで、功を奏したのが移住制限法でした。その名の通り、海外からの移住を制限したことで、有色人種を奴隷として連れてくることができなくなりました。また、移住制限法と同じ時期に太平洋諸島労働法も制定され、奴隷制が廃止されました。
帝国主義世界の中のオーストラリア
19世紀後半のオーストラリアは、帝国主義が広まる世界で翻弄されていきます。
オーストラリアにとって脅威だったのは、ドイツとロシアでした。西洋諸国は、南太平洋の無人島をことごとく植民地として支配しており、オーストラリア周辺への進出も危惧されていました。
また、オーストラリアは、イギリスの植民地だったため、ボーア戦争や義和団事件のために派兵も余儀なくされました。
20世紀初頭に日英同盟が成立すると、オーストラリアは、それを支持するようになります。そして、親日論が台頭しましたが、これは反ロシア感情の裏返しでしかなく、オーストラリアにとっては、日本も脅威の一つでした。
日露戦争に勝利した日本は、新たなパワーとなり、オーストラリアを警戒させる存在となります。しかし、第三次日英同盟により、オーストラリア国内から、少なくとも10年は日本の脅威が消えました。
その後、第一次世界大戦に勝利したオーストラリアは、赤道以南の南太平洋の旧ドイツ領を獲得していきます。これには、同じく赤道以北の旧ドイツ領を獲得していった日本の南下を阻止する狙いがありました。
この時期のオーストラリアにとって日本は脅威でしたが、1929年の経済恐慌、1930年代に日本が中国進出を強行し国際連盟を脱退したなどの理由から、やがて、その脅威は薄らぎ、対日宥和政策が積極的に模索されるようになりました。
第二次大戦後のオーストラリア
第二次大戦後のオーストラリアは、白豪政策から多文化主義へと移っていきます。
東アジアとの一体化を目指し、多くの移民を受け入れるようになった最大の理由は、この頃のオーストラリアが東アジアとの貿易によって経済的豊かさを維持できていたからです。
かつては、イギリスとの経済的一体化によって豊かさを享受できていたオーストラリアでしたが、20世紀に入ってからイギリスの力は衰え頼りにできなくなっていました。さらにイギリスが、1967年に欧州経済共同体(EEC)への加盟を申請し、1973年に欧州共同体(EC)に加盟するなど、その経済力の衰退は明らかであり、オーストラリアがこれまでのようにイギリスの経済力で豊かになる道は閉ざされていました。
一方で、高度経済成長を遂げた日本は、オーストラリアにとって良い貿易相手国となります。輸出入ともに1960年代以降、右肩上がりに増加していきました。
また、この頃からオーストラリアは、ミドルパワー外交を展開していきます。大国を目指すのではなく中堅を維持することで発展する道を選んだのです。
オーストラリアは、広い国土を有していますが、内陸部はほとんど砂漠のため人が住むことはできません。そのため、2,500万人前後が最適な人口と考えられており、2022年時点では2,626万人がオーストラリアに住んでいます。このような事情を考えると、大国を目指すよりミドルパワーを維持する方が、オーストラリアを豊かにするのに好都合なのかもしれません。
近代以降、日本とオーストラリアは、対立することもありましたが、お互いに重要な関係国として現代にいたっています。あまり意識されることがないオーストラリアですが、これからも、日本にとって大切な国であることでしょう。