ウェブ1丁目図書館

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近代化のための民族の精神的統一

日本社会の大きな転換点は明治維新です。

江戸時代以前と明治以降では、同じ国なのかと疑うほど、大きな違いがあります。一言で言えば急速な近代化が日本社会を変質させたとなりますが、物質的な近代化だけが日本社会を変えたわけではありません。

日本の近代化は、国民の精神面に政府が介入したことでも促進されたことをほとんどの現代日本人は忘れています。家父長制や軍国主義ではなく、もっと根本的なところで、日本国民は明治政府から精神面の近代化を迫られたのです。

国際社会の一員となるための転換

江戸時代が終わり明治時代に入った日本は、政府主導で近代化が図られました。

そして、明治に入った数年間で、日本人は精神面でも大きく転換します。

日本思想史を専門とする安丸良夫さんは、「神仏分離廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれた」と著書の「神々の明治維新」で述べています。

国際社会の一員となること。それは、力と力の闘技場へ加わろうとすることです。これから近代化を果たしていく国家にとって、腕力で他国と渡り合うためには、まず、弱小な民族の自己規定と自己統御が必要になります。そのためには、自らの内的な弱さと不安を代償する精神の内燃装置が必要でした。

秘められた弱さと不安とのゆえに、かえって神経症的に持続する緊張と活動性とを生みだしてゆくような精神の装置。だが、そのためには、どんなに大きな飛躍と抑圧とが必要だったことだろう。伝統は、この課題にあわせて分割され、再編成された。(2ページ)

我々が、現在、日本の伝統と思っている事柄の多くは、明治の神仏分離以降に生み出されたものです。つまり、この神仏分離以降にできた風習が日本の伝統となっていると言えるのです。

名神社への初詣や神前結婚式は、明治以降の風習です。どちらも宗教的色彩を持つ行事なのですが、ほとんど無自覚のまま多くの現代日本人は受容しています。そして、このような風習からはみだすと落ち着かなくなり、不安にさえなるのは、日本人の過剰同調的な特質であり、神仏分離廃仏毀釈の歴史的考察は、その特質を探る手がかりとなるのではないかと安丸さんは考えています。

皇統と関係する神をその他の宗教から分離

神仏分離

その言葉は、神と仏を切り離すことであり、神社と寺院を別に扱うといった意味に思えます。

でも、明治政府が行った神仏分離は、この言葉以上の意味を持っていました。神話的にも歴史的にも皇統と国家の功臣が神とされ、それ以外の神は神とは扱われませんでした。はやい話が国家にとって都合の良い神だけをこれからは神とし、それ以外の神仏とは一線を画すことが神仏分離の真の目的だったのです。

神仏分離令は、やがて寺院破壊、つまり廃仏毀釈へとつながっていきます。この時代、朝廷の権威は絶対的なものであり、筋道を立てて対抗することは思いもよらないことでした。そのため、地域の権力だけでは容易に実施できないことでも、朝廷の意思を強調すれば実現可能でした。廃仏毀釈も朝廷の権威をもって地域の権力がおしすすめていったものでした。

神社と寺院が分離されたことに伴い、これまで神社に祀られていた祭神の取り換えも行われます。牛頭天王(ごずてんのう)は素戔嗚尊(すさのおのみこと)へ取り替えられ、その他、地域で信仰されていた神々も、皇統と関係のある祭神に取り換えられていきました。

さらには、国家的な神々の祭祀に連結しようとする宗教政策は、民俗行事を抑圧し始めます。地域に根付いた行事や習俗は、迷信、猥雑、浪費などとみなされ、廃絶の対象とされたのです。

同調する民族のできあがり

地域の宗教が抑圧され、日本全国で皇統と関係のある神を信仰するようにされた日本人。

これこそが、同調する民族性を作り上げていったのではないでしょうか。

もともと日本全国には、多様な信仰があり、多様な習俗がありました。現在でも、江戸時代以前から続いている伝統行事は各地に残っていますが、それらは特別なものと考える人が多いように思います。

日本古来からの伝統行事は何かと問われた時、多くの人は、初詣や墓参りなど日本全国で共通に行われている行事を答えるのではないでしょうか。しかし、本来は、その土地ごとに伝統行事は異なっていたのですから、日本全国で同じ答えが返ってくることの方が不自然なのです。

そのような不自然なことが起こるのは、明治維新神仏分離で、日本国民の精神的統一が図られたからなのでしょう。


弱い国家が国際舞台に出ていくとき、国民の精神的統一が必要であり、それが近代化をおしすすめる原動力になったはずです。しかし、近代化が実現し成熟した社会では、統一された精神性が身動きをとれなくし、どこに向かえば良いのかわからなくさせているのかもしれません。